・今日の周辺 2023年3月季節のグラデーションの中
○ 今日の周辺
春が特別なのか、季節の変わり目がいつも何か新鮮さをもたらしてはっとするのか、よくわからないけれど、辺りに感覚を研ぎ澄まして歩く。
古い家の玄関の前、白梅の大木が大切に手入れされて満開を迎えてる。古い建物が密集する、整備されていない入り組んだ路地の家やビルの意匠や装飾がおもしろい。南側を向いた一面の窓が羨ましい。
告知なしの行き止まりや突如現れる小さな階段、緩やかなカーブを描く下り坂が楽しい、何メートルも続く塀に囲われた、門の前に小さな交番を持つ豪邸は最高裁判所の裁判官の家。「行ってみる?」と口約束をして行くことのなかった建物の前をふと通り過ぎる。川沿いの桜の木は遠目にはまだ冬のまま。
川のどん詰まりで、数十羽の鴨が集まってぐるぐる回っているのを初めて見た。なんだったのか。
買い物をして、「袋いりません」と言ったらスノードーム型のオルゴールをもらった。夢だった。
「あずきの力」って、あずきが入った温かいアイマスク、
温め時間を守らないせいで、どんどん香ばしく、すごい美味しそうな匂いになってきてる、温めてすぐは特に。最近寝る前すごく香ばしい。
夢に見る。人付き合いの中の楽しさ、浮かれ、気まずさ、複雑さ、面倒臭さ、空虚さ。春独特のやつ。暖かい夜、薄着で寝たからかもしれない。
○ あれこれ
人と違う、ということで、尋ねられていないことを一から話す、そのために伝える方法を考える、相手の想定外から自分の話に引き寄せて聞いてもらうことのハードルが私にはすごく高い。
『IWAKAN』のPodcastを面白く聴いてる。
世の中の当たり前に違和感を問いかけることをテーマに、ジェンダー、セクシュアリティ、クィアカルチャーについて話すという文脈で集まって4人で話していても、もちろん口にする意見はそれぞれに異なる。
まずは相手の意見を肯定的に受け止める、その上で、疑問や批判的な意見を提示する。それぞれにルーツが異なるメンバーが集まっていることもあって、1つのテーマでも話はあちこちに飛び回る、それがおもしろくて、それがいいところで、必ずしも結論にいたらなくても全然いい。
けれど、やはり根底にあるのは、あらゆる人の権利を尊重するために、マイノリティの存在を無視しないために私はどうすべきか、自分の周囲の悪しき慣習にNOと言いたい、ということで一致していると思う。
好きじゃないけど〜嫌いじゃないとか、共感できるが同意しない、批判するけど否定しない、とか他者の言動へ向けるリアクションはもう少し複雑なままであったり、曖昧でもいいんじゃないかと思う。はっきりとしない言葉や考えの中に溶け出すものがある気がする。
それは無関心や不寛容とは違って、「見ている」「聞いている」「頷く」くらいの関係を許容し合えればいいのでは。それはそんなに退屈なことでないと思う。
○ 支離滅裂な足どり(散歩)
シアターコモンズトーキョー’23
小泉明朗「火を運ぶプロメテウス」をSHIBAURA HOUSEに観にいく。
初めてオキュラス(結構重い)着けて、催眠術のようなストーリーテリング、30分くらいのVR体験。
社会的な?時間感覚とか捨てられそう、夢とか、眠る前の時間感覚に近い、
時間をかけて、自分の両手を動かすことで映像の中の両手と同期していく、ディスプレイの中に自分自身の手が見えているわけではないので映像の中の両手に自分が協力する形になるけれど、そこに暗闇の中から誰かの手がゆっくりと重なったとき、何か手のひらがぴりぴりする感じ。握っても握れないし、握られるわけもないのだけど、握って欲しい、と思う。
幻肢や幻肢痛を持つ人の治療やトレーニングにVRが役立つ、というのを本で読んだことを思い出す、確かに視覚と自分の行動によってある種の物語の中に自分の身体がじっくりと同期されていくのは「仮想」とは言いきり難い何かもんわりとしたリアリティ?があって、好きになった。
今回は深く腰を下ろせるソファに座っての体験(その周りを円錐形のテントが覆っている)だったけれど、歩いて散策したりしてみたかった。
佐藤朋子「オバケ東京のためのインデックス 第二章」ゲーテ・インスティトゥート東京で。
自由連想とレクチャー形式の語りというの、新鮮。リサーチの報告、語り手、レクチャーをする際は佐藤さん自身として、それらの役割をゆるやかに行き来しながら公私、主観と客観、国家と個人のような、異なる視点のその境目が佐藤さんのパフォーマンスの中に曖昧に、交ざり合っていく。確かに、普段は当然に場面によってそれらを使い分けて表現し、受容している。たとえば、照明が当たる舞台上にいて、演じていた自分から素の自分が不意に顔を出す、かと思えば死者がイタコを通して話し始める、みたいな、移り変わる間の揺らぎ、チューニングする時間も舞台上で意図的に試して引き受けているのを見ていると、何か経験したことのない幻覚のような、緊張感があった。演者の認識によって演出に含まれる範囲が決まる。客席まで意識される演劇やパフォーマンスが好き、舞台と客席が地続きになって、いくつもの1対1が同時に生まれている。
上演の中に目にしたものが、舞台上にあったものが終幕して、今私と一緒に家に帰り、家にある
夜の散歩ができる季節になるのは嬉しい、夜、高架を走っていく電車を見上げるのが好き。
人通りのない臨海部のしんとした道を歩くのも。神奈川芸術劇場で夜の公演を見て、そのあと山下公園を通ってみなとみらいまで歩いて帰ったり。
音楽を聴きながら、それは完全に現実からの逃避だったけれど、いい時間だった。どの道を通るのかとか、どこに帰るのかとか、明日の予定とか、考えない、こういう時間は人生の中にたまにあっていい。風を体に受けとめて通す。新しい季節を迎えるための儀式みたいなもの。
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退職に合わせて(?)職場のカメラ壊れる。おつかれさまと言うほかない。
今困っていること、ゆるやかに解消に向けたい。意図することは、なかなか伝わらない。なかなか伝わらない、そういうものなのだけれど、何度も言いたくないし(面倒だからではなくて、自分が思っている以上に強調したくない、ということ)、一度で伝えるためにはっきり言いすぎるのも好きでない、伝える、ということが先行しては言葉を単なる記号、指令として扱うことに容易に翻るから。でも伝わらなきゃ、なのだけど。
今ある流れを堰き止めないために、見過ごした、見落としたもののほうに、いつも気をとられる。
30代を迎えるにあたり、ひとまず体力をつける体力を確保できるように基礎的な足固めを、今までできない場面があった分、少し時間をかけてしっかり固めていきたいところ。