○ マームとジプシー『cocoon』を2022年に彩の国さいたま芸術劇場大ホールで
マームとジプシー『cocoon』をようやく今回観に行く。
東京公演が中止になって、戻ってきたお金で、埼玉公演の少しいい席を取ることができた。彩の国さいたま芸術劇場、結構好きなところだから、むしろ嬉しい。2017年の再々演「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっとーーーーー」でマームとジプシーを初めて観に行ったのはここの小ホールだった。
今日マチ子さんの原作『cocoon』を読む。
どうしたらいい
沖縄戦ひめゆり学徒隊を題材としたフィクション。今日さんの漫画を初めて読んだ。
軽く短いストロークのタッチ、ペンの筆跡を残すように描かれた世界。
女生徒達のあっけらかんとした明るさに暗いものを予め寄せ付けない強かさを感じる。
通して同じタッチで描かれる、刻々と深刻化し貧しくなる中であっても和気藹々とした雰囲気を残す彼女らと、さっきまで隣にいた誰かが死んでいくことのわからなさ、受け止められなさ、弔うこともできない危機に瀕した状況がこれでもかと次々と過ぎ去るのは私が今を生き延びなければならないからだ。
石鹸のエピソードが好きだった。
サンの想像力、マユが度々かけてくれるまじない、ひなちゃんのノート、タマキさんがいつまでも身なりを気にかけて鏡を見ていること、目の前の困難を軽々乗り越えるためのいろいろなお守りが登場する。それらが、今ここの私と、この後のことを繋ぎ止める。
9/5 5:00
完全に目が覚めてしまった
cocoonの中に出会った彼女たちの、名前ですら呼ばれなかった負傷した彼らの、ことを自分ができる方法で残しておかなければ、と焦って書き留める もう思い出せないことがある、一人ひとりのこと
サン、マユ、たまきさん、小泉先生、しずる、もも、ひな、こいしー、あや、えっちゃん、ゆうき、はるか、ゆきの、あおい
劇場に入ると、夏の、
蝉の、烏の、軍用機の、音
舞台には暗い中に星座とcocoonのロゴが映し出されている、壕やガマから空を覗いているような、夜の静けさがあって、夏の音に、水や茂みの匂いまでしそうだった
彼女たちの間で話される、日々の中に果たしたい小さな理想
その場面を用意する人たちの存在は、影になって彼女たちからは見えていない
一方が語れば、一方は翳る
互いが担う異なる側面を垣間見ながらも、像を結ばない
どちらもが、だれもが、現実に異なる幻を見出して、それが一人ひとりの現実となっている
戦況が悪化するにつれて、その状況は理解できることを超えてしまって、ただぼーっと目にするしかなかった
自分の記憶になったかのようだった その感覚も怖い
自分の中に止むことなく再生される記憶、途切れ途切れの断片を連ねた時間は時系列にかまわず、ループする、スキップしてその先の、前のワンシーンと接続する
77年前、昔話としてでなく、
戦争を知らない世代、ではもはや、ないとも言える、戦争の前として
もう一度、漫画を読んだ。
1度目では、何かと何かの間の、小さなコマの一瞬、誰かの表情や反応を私は見落としていた。何一つとして思う通りにはならない中を集団で生き延びようとするとき、けれどそれは個人の集まりであり、一人ひとりに違って世界が見えていることで、互いが予想できない行動を取り始めることに命ごと翻弄される。
サンが生き延びたのは、サンがフィクションとしての戦争の物語の中に主人公として描かれているから、ではない。
サンが生き延びたのは、周囲の友人がぱたりと、生きていかれなかったことと同位の偶然のことといえ、サンが生き延びたから、この物語はサンを中心に描かれている、描ける。
ときに語りは沈黙をカバーしてしまう。
そのことを現実の戦争に、戦争と呼ばない日常に照らして、自分の中に忘れたくない。
ー
すごく疲れた。 観終わって。
あの劇が、あの場で終わってくれたおかげで、彼女ら、彼らが一列に並んでお辞儀をして、体を起こすと演者一人ひとりの顔になって、拍手拍手拍手で送り出す。そうして私は私になって帰路に着く。
劇が終わりに到達するのと同時に、サンの語りが、記憶が、そのまま私の記憶としてぴったりと定着し終えた感覚があって、今それはもうどうにもできない。
何から書き留めたらいいのか、小さな一瞬の誰かの表情や声が連なって、何か1つを取り出すことができない。