有名大学とキャリア
有名であることはわかりやすいという点で良い. しかしそれよりも以上の意味がない. 正しい理性を備えた人間は, 他者の為人がわかるものであり, わかりやすさは不要である. 従ってこの場合有名であることの良さは消滅する. 一方, 正しい理性を備えていない人間と会話する際には, わかりやすさは極めて重要である. この場合, 外面の方が内面よりも目につきやすいものであり, 外面に現れる情報がその人物を理解するための十分条件になりさえする.
恥ずかしながら私も, まだ正しい理性を獲得するには至ったいない. 有名大学出身の肩書が欲しくなったり, 有名企業に入りたくなったり, 資格が欲しくなったりしてきた. その陳腐な欲求が私の人生を狂わせてきた. 無意識であるが, 今も自分の考えを世に発信し, 共感や同調を得たいと思っているのかもしれない. もし正しい理性が備わっていれば, 必要よりも以上に自分を飾ったりせずとも満足することができるのかもしれない. この陳腐な欲求の根源は何なのであろうか. その根源は, 現在の私には到底理解し得ないものなのであろうと思う.
世間は大学の合格発表の時期らしい. "春から〇〇大学"なる文言をよく見かける. 大学は素晴らしい場所であるから, これらの発信は喜ばしいことである. ここで注意しなければならないことは, 環境が素晴らしいということは学びを進めるための必要条件でも十分条件でもないということである. そこにある学びやすさは, 生かすも殺すも自分次第である. だから本当は場所について報告するのではなくて, 何をするのか宣言するのが良いのではないだろうか. "春から函数解析"とかね.
不合格になった人々にも伝えたいことがある. 有名大学合格は"わかりやすさ"を獲得したに過ぎない. 不合格になったことで獲得できなかったことはこの"わかりやすさ"だけであるのだから, 余計に悲しくならないでほしい. なぜならこの"わかりやすさ"は正しい理性を備えた人間の前では不要なのだから.