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大人と子供
子供は多くを知りたがり, 大人は多くを知っているつもりになる. これは脳の発達の問題であるから仕方がない. 注意すべきはこの特性の使い方である. 結論として, 親(大人)が子(子供)へ与えるべきは学ぶ姿であって学んだ結果でない. 前者を教養と呼び, 後者を知識と呼ぶ. 以下ではそのように思う理由を教育の観点から述べる.
"常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである"とアインシュタインが言ったように, 社会から要請される価値基準は時代によって大きく異なるため, 教育のあり方も時代とともに変化する. 高度経済成長期(①)には, 質の高い反復作業ができる人材が要請されていたため, いわゆる drill and practice 的教育がなされてきた. そして平成の30年間(②)はその名残が引き継がれ, かつ個の生きる力というよくわからない(はっきりとしない)力が求められてきたため, 教育は錯綜していた. そして現代(③)では革新的人材の需要が高まりをみせ, 課題解決能力が身に付くらしい教育がなされている. ①において, 大人が子供へ享受すべきは知識であった. この名残を引き継いでしまったのが②という時代であると認識している. では③はどうであろうか. 革新的人材を訓練で育てられるわけもないので, もちろん, 大人が子供へ享受すべきは知識ではない. 施せることは, 学びに向かう姿勢を示す程度しかないのではないだろうか. ここで私は放任主義を主張しているのではないことを注意しておく. 子供の可能性を生かすために余計なことはせず, 子供をよく観察し, 安全に学べる環境を作ることが重要で, その環境内の教材の一つとして我々の学ぶ姿勢も子供に与えよう, ということである. 必要以上に知識ばかり享受してしまっては, 偏見たっぷりなお利口さんが出来上がってしまう危険性がある, という偏見が私にはある.
ということに気をつけながら教育活動をしていきます…(この文章は私への戒めです)