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どのドーナツを食べればいいのかわからなくて、迷って悩んで結局選べなかったときのこと。


箱に入ったドーナツを見たときにいつも思い出すのが、
結婚して初めて夫の実家に帰省したときのことだ。


「ドーナツ買って来たよー!」
と、ミスタードーナツのテイクアウト用ボックスを持って
義母が買い物から帰って来た。

「皆で食べてね。」


ミスドといえばフレンチクルーラー。私はフレンチクールーラーが好きだ。ポンデリングでもいい。けれど、その中にはなかった。
エンゼルクリームは私の実家ではほとんど買ったことがなくて、あまり馴染みがなかったから、逆によく覚えている。他にもチョコがけのもの、いちごっぽいピンクのもの等、いろんな種類のドーナツが10個以上並んでいた。

ぱっと見ちょっと可愛い色合いのドーナツへ手を伸ばしかけたら、

「それは◯◯(義姉)が好きなやつやねん。置いといてくれる?」
と義母に止められた。

じゃあ、隣のマフィンにしようとしたら、
「それは◯◯(義弟)に置いといて。」
と、また義母に止められた。

隣では、夫がすでにドーナツを食べ始めている。
「あんたはチョコレートが好きやもんなあ。」

はいはいはいはい。
みんなの好みはよーくわかった。

じゃあ私は何を食べればいいの?と、ふとわれに返る。
こんなにたくさん並んでいるのに、どれなら食べても何も言われないんだろうか。みんないいな、私も食べたい。でも、何を食べていいのかわからない。どうしよう。

皆が楽しそうに食べているのを見ながら、だんだん寂しくなってきた。
そしてちょっとだけ怒りに変わった。どうしたらいいのかわからない。
なのに、ひとり取り残されたようなこの気持ちをどう表現していいのかがわからない。

たかがドーナツなんだけど、何も言えず途方に暮れた。


私はひとりっ子で、両親との3人家族で育った。

お菓子はだいたい私の好きなものを母が買って来てくれるし、それらは私が食べたいときに食べられるものだ。昨日食べたお菓子を次の日に食べようと取りに行くと、昨日片付けたままの形で置かれている。

だから、食べたいものを食べたいときに誰にも邪魔されずに食べられた。

毎回、ポテトチップスもクッキーも食べたいタイミングで食べたい量が食べられる。ケーキはいつもいちばんに好きなものを選ぶことができる。


私はいつもひとりで食べていた。横に母が一緒にいるけれど、一緒に食べるわけではない。そんな食べ方は摂食中枢は満たされるけれど、なんとなくいつも寂しかった。

きょうだいがいる人が聞いたら何を言っているんだ、と思われるかもしれないけれど、私はきょうだいでお菓子を分けて皆で食べている光景がうらやましくてしかたがなかった。お姉ちゃんにとられた、とか、半分しか食べられない、とか友達がよく言っていたのを横で聞いていたけれど、そんな不満そうな表情さえもうらやましかった。取り合っている姿が真剣なほど、温かいものを感じた。ひとりでは、どうやったってできないことだから。

皆で食べ物を囲んで、わいわいと食べることは憧れだった。みんなで食べるとおいしいね。何を食べても、誰かとわいわいしながら食べているだけでおいしさが何割も増すような気がする。


けれど、このドーナツの件で皆で食べる経験を通して、厳しい面もあることを知った。食べたいものに到達するには、ただ待っていてもだめ。何が欲しいか自分ではっきり言わないと誰にも気づいてもらえない。同時に、そのときに比較的楽に手に入りそうなものをさっと選び抜く目も必要だ。

皆で食べるって、なかなか大変なのね。

それ以来、夫の実家で食べるときはいちばん最後にそっと選ぶようになった。お菓子を並べられたときも、大皿料理での食事のときも、皆が選んだあとを見て、ここらがノーマークだと思われるものを選んだり、「誰かの大好き」なものを避けたりするようにした。そうすると、誰にも何も言われないことがわかってきた。

こういう食べ方をすると、自分のいちばん好きなものを食べられるとは限らない。けれど、皆で食べるとそれが気にならなくなるくらい楽しさの方が上回る。誰かの話もたくさん聞けるし、笑い声も何倍もの大きさになって賑わいが増す。やっぱり、みんなで食べるとおいしいね。



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