お別れ~故郷を発つ~
仕込みさんの体験を終え、実家に帰り、京都へ修行に行くことを心に決めた
私は、一刻も早く京都へ行き、修行に入りたっかので、卒業前に行くことはできないか、
母と2人で学校に相談しに行きました。
学校としては、このような事は初めてのようで、『特例』と言うことで、
出席日数を満たす事を条件に、卒業前に京都に行くことを許可してもらいました。登校最終日、校長室へ挨拶に行ったら、「特別だよ☝」と笑顔で見送って下さったことを、今でもはっきり覚えています。校長感謝❣
卒業式を残して、ドラマのワンシーンのような見送られ方をどこかクールな目で見ていた事は、「内緒だよ☝」・・・・・・クラスメイト感謝❣
今思うと、可愛らしげのない生意気な14歳です。
もちろん京都へ行くまでに、家族との時間も大事に過ごしました。
思い出つくりに、父と沖縄に行ったり、母と姉弟と祖母と北海道へ行き、雪景色のなか家族との時間を噛みしめました。
京都へ旅経つ日、家族以外にたくさんの人が、見送りに来てくれました。
学校の友達、習い事の友達、部活の顧問の先生、、、みんなにお別れをして母に付き添ってもらいながら、2人で京都へ行きました。
関西へ着くと、いとこのお兄ちゃんといとこの彼女さんが待ってくれていました。
私の母は、大の方向音痴で、田舎育ちで電車やバスに慣れていなかったので、京都へ行く時は関西に住んでる叔母やいとこによく道案内で付き添ってもらっていました。
電車を乗り継いで、京都に着くまでの道中賑やかにおしゃべりして、楽しい時間でした、花街の地域に足を踏み入れると少し緊張してきて、あっという間に置屋さん玄関に着きました。
スーツケースを持ってくれてたいとこから荷物を受け取り、「ありがとう」と言って、母と一緒に入りました。
そこからは、結構あっさりで、母が置屋さんのお母さんにご挨拶をして、母が手土産をお母さんに渡して、大人同士のお話が済むと「お母さんにお別れちゃんと言うたら、お見送りしといない。」と言ってもらい外へ出て、待っていたいとこのお兄ちゃんと母に、「ありがとう」と言って今度は私が母を
見送りました。
仕込さん、舞妓さんは原則として携帯電話を持つことが禁止されています。
時代と共にルールが変わってきてる部分はあっても、原則禁止。
携帯電話以外に電子機器、タブレット、PC 、iPod、などなど使いようによっては修行の妨げにもなりますし、家族とちょくちょく連絡をとると、里心がついて、寂しくなったり、京都弁(廓言葉)を身に付けないといけないのに
中々覚えられなくなったらいけない、などの理由で持ってはいけまへん!
私は元々持っていなかったので、手放す不安はありませんでした。
持っている子は、親と別れる際に、親に渡したりしてました。
携帯電話を持っていれば、母と別れる際、「また、連絡するね。」などと言ってから別れたんでしょうね。
連絡手段がほぼ手紙の仕込さん。あの別れ際、どんな言葉を言ったかまでは覚えてないですが、あの時、次いつ会えるか、声を聞けるか分からない、親子の何とも言えない空気は上手く言葉にできません。
見送りを終え、置屋さんに戻り、仕込さんの先輩が部屋は案内してくれました。先輩の話の聞いている間に、現実に引き戻されたのか、つい、さっきまで賑やかに喋っていた、いとこや一緒にいた母が居ないことに、頭がお追いついた私は、涙が出てきました。寂しくないとずっと高を括っていましたが、その時ばかりはダメでした。
先輩は「大丈夫、うちも最初来た日は泣いたし」と励ましてくれました。
少し泣いたら、気分も軽くなり、置屋さんの芸妓さん、舞妓さんの姉さん方にご挨拶を済ませたら、あっという間に!夕方の超多忙時間。
※夕方のタイムスケジュールは「仕込みの体験1⃣~3⃣」にて、読んでいただきますと幸いです。
ここで又書くと、文字数オーバーしそうな位なので、控えます。
仕込みさんの体験をしていたのもあり、色んなことが「初めまして」ではなかったですが、なんせ覚えることが沢山あり忙しいお陰で寂しがってる暇はありませんでした。
寂しさよりも、ワクワクの方が勝っていた、14歳秋。
待ち時間、小部屋で先輩と一緒にテレビを見て、自分は黙って見れないこと知った、舞妓の卵でした。
つづく。
~*~*~ご拝読有難うございました~*~*~
残暑厳しい9月、空は高く、時折秋風が吹く今日この頃。
京都に修行に入った、「秋」からもう20年近く経とうとしています。
携帯電話を持っていない私は、実家に手紙をたまに出してました。
引退して、実家でその手紙を読もうとしたら、読めんかっとです。
ヒロシです。
取っておいてくれて、ありがとう、お母さん。