女のかわいそう戦略

ユヴァル・ノア・ハラリという歴史学者の一般向けの本に「サピエンス全史」というのがある。

上下巻にまたがるなかなかに長いが面白いこの本の中に、ハラリが匙を投げた疑問がある。
それは
「なぜ地球上のどこでも家父長制が不変なのか」という問いだ。
言い換えてみると「なぜ女は権力を持ち男の上に立てなかったのか」だ。

ハラリはなぜだかまったく分からないらしいが私には自明によくわかる。
ので彼の代わりに答えよう。
それは「女が弱者というイメージにしがみつき責任を放棄して楽に生きる戦略をとったから」だ。

確かにハラリの言う通り人間社会は力そのものがモノを言わない。
権力者と言えば中学生でも殴り倒せるような老人だし、60歳が20歳を支配しているような構造を持つ。
人間社会がモノを言うのはひとえに「イメージ」である。
何となく強そう。なんとなく弱そう。は言い換えると「全能性」「脆弱性」があるっぽいイメージと言える。

女はどこかの時点で男に犯されうる「脆弱性」のイメージを持ち、男はいつでも好きな時に女を犯せる「全能性」のイメージをもつ。
どうしようもない肉体的な力が見せるイメージであり、古今東西不変の真理だ。
この時点で女が権力を持ちづらいビジョンなのは哀れなことだが話はここで終わらない。

これを増長させたのが女の「脆弱性にしがみつく戦略」だ。
何度も言うが人間社会は力の強さそのものが優位さには繋がらない。
翻って言えば「弱者性」「かわいそうな感じ」というイメージが武器になるのだ。

考えてみてほしい。
「女は弱くてかわいそうな劣等種」というイメージを女自らが打ち出すことで自分の人生に責任を持たず、男に甘えて庇護されて楽に生きていけるとしたら。
男が戦い勝ち取らなければならない尊厳や地位を得るための命を懸けた戦場から遠く離れた、男につくってもらった幼稚園で楽しく生きられるとしたら。
そっちのほうが良くね?

女は種としてこういう戦略をとったのだから権力など持てなくて当然である。
幼稚園で保護される小さな子供のどこを自ら戦わなければならない戦士が尊敬しなければいけないのか。

この戦略は「種として女が生き延びるための戦略」としては成功だった。
しかし同時に有能な女個々人の足を引っ張ることにもなる。

有能な女からすれば「女という種全体が男に庇護される戦略」をとる世界では同じ女であるだけで信頼性の欠如に繋がってしまう。
男尊女卑を生み出したのは「楽な方へ流された怠惰な女どもの惰性」に他ならないのだから結局女の敵は女なのだ。

女が男と同等の人間になりたいのであれば肉体的な劣勢に紐づいた「脆弱性」のイメージを払拭する戦略をとらなければならなかったのだが、人間とは怠惰なもので楽な方へ流される。

さて、冒頭のハラリの疑問には一通り答えたところで最後にひとつ希望を。
近年男性社会に吹き荒れるアンチフェミはいよいよ女のための幼稚園を崩壊させるだろう。
アンチフェミの言い分としては「いい加減女は自分の人生に責任を持ち男に甘えた成果の幼稚園を卒園して人間になれ」というしごくもっともなものだ。

しかし私はアンチフェミの男の言い分全てに賛同できない。
なぜならその楽な方へ流された怠惰な女どもの台頭を許してきたのは紛れもなく男だからだ。

人類史のもっと初めのほうで「あたち女だからできな~い」「女は劣等種だから助けてよ~」という甘ったれを切り捨てておくべきだったのに、そうできるのは女用幼稚園を設立できる男だけだったのに、なぜそうしなかったのか。
アンチフェミの登場は遅すぎた。
今の今までなぜ人類史は(つまり権力ある男たちは)弱者性にしがみつく邪悪な女どもをはびこらせてしまったのか。
これは男の罪である。この点は男は反省するべきだ。

今からでも未来の社会をよりマシにするためには男は皆弱者性にしがみつく女を人間にするためにアンチフェミになるべきである。

間違っても女をゲットするため自分一人だけフェミ信奉のような振る舞いの抜け駆けは許さん。

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