女はなぜ男に女のことを教えてもらわないとわからないのか

上のrei氏の記事を読んで思い出したのが三島由紀夫「女ぎらひの弁」だ。
(ちなみにまだ有料部分は読んでない)
思い出した部分を引用すると

「あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教えてもらっている始末である」

そう、その通りなのだ。
私もアンチフェミのnoteを読んで初めて自分には性的資本なるものがあり、自分が普通だと思っていたことが男からすれば全く普通ではなく傲慢ですらあることをすべてアンチフェミの「男性」から教わった。

なぜ女は女のことを知らないのか?
簡単に言うと女同士のつながりというのは同調の集まりなので、自分たちと似た人達としかつるまないため他の界隈を知らないから。

ここから導き出される答えは男性には信じられないかもしれない。
つまり、女は他の女を自分と同じ人間だと思ってない。

「私だけは普通の女とは違う、男に近い人間である」と皆が思っている。
女という性に共通するものなど何もないと思っている。

例えば、男に生まれついた場合嫌でも「潜在的加害者」と思われることは男なら誰でも成長過程で知る。
例え非モテ童貞だろうが彼は男という時点で「いつかどこかの時点で犯罪/性犯罪を起こす可能性のある女性を怯えさせる人間」としてジャッジされることを、男は自覚している。
そこには男という性に生まれついてしまった者が強制的に背負わされる「加害性」という共通点がある。

そして、加害性=能動性だ。
当たり前だが犯罪/性犯罪というのは人が起こすものであり、「犯罪の意図はなかったが自らの行動が犯罪とジャッジされてしまった」という場合ですら、彼は何がしかの「行動」は起こしている。
だからこそ「潜在的に加害性を持つ」男たちは自らの行動の何がどう加害とカウントされるか知っておき、かつ意識しなければまともに生きていけない。
それが男が男を分析することに繋がるのだと思う。つまり、男たちは「我々男」という何か一枚岩の意識があるのではないだろうか。
ちなみにこれを対女でやると私のように男に女のことを教えてもらう女が発生する。
ありがたや。

一方、女性は「いつかどこかの時点で何がしかの被害を受ける、つまり男性に何かされる存在」であり、それはいつやってくるか分からない。
つまり被害性=受け身だ。

被害はいつやってくるか分からないし、被害を受けるタイミングなど選べない。
つまり女性からすれば「私は何もしてないのに被害が勝手にやってきた」状態なのだ。
私は何もしていないのだから当然分析などできないし、かつ今の「被害者には何も落ち度はない」ストーリーにのっとれば、「私はミニスカを履いてたから夜道で痴漢にあったのね!じゃあ次からはパンツにしとこ。」みたいな分析はタブーだ。
真っ先に同性から叩かれるだろう。男性優位社会に従順になった負け犬として。

いくら客観的証拠を持ち出して「女性は夜道でミニスカだと性犯罪にあいやすいです」みたいなデータやソースを提示したとしても、「私は何もしていないのに勝手に被害がやって来た」思考の女性にとってはとんでもない人権侵害なのだ。
男性からすれば「いやいやきちんとデータがあるのだからそれを活用して、確かに屈辱的だろうけど、自分に有利なようにしたらいいじゃん」と思うだろう。
だが、「私は何も悪くない」思考の女性にとってデータや統計から何かを学ばなくてはいけない状態にされたこと自体が女性差別なのだ。
「私は何の落ち度もないのになぜ私がデータを学ばなきゃいけないの!?ましてや行動を変えなきゃいけないの!?女の子にはいつでもどこでも好きなものを着る権利がある!」とヒスるだけだ。
そして被害に遭い続けてぴえんする。

それでも女性にとっては「データや統計を活用する」男社会に屈するより「被害にあう可能性を保持し続けてぴえんするチャンスを持っておく」ほうが心地よいのだ。

話がそれたが上記をまとめて言うと女の子には自由があるので(どこで何を着ようと私の自由みたいな)、「そもそも女性という存在に一律で強制的に何かを背負わせること自体が差別」にあたり、そのため女性は自分たち女が強制的に背負わされているもの共通点は被害性以外にないと思っている。
そして被害性=受け身である。

こんな状態でどうやって女が女を分析し、知ることができるのだろうか。
そもそも「分析しなければならない状態に追い込まれたこと自体が差別」なのに。

ここまで書いてきて悲しくなったがやはり「男は男友達を頼り、女は彼氏を頼る」という説は正しいのだ。
私がこのnoteでずっと書いてきたように女は女同士で信頼できない(むしろ男という頼れる存在がいるのにわざわざ女を頼らない)。
その女の女への不信が女同士の一枚岩感覚や連帯感を育むのを阻んでおり、だからこそ女は女を分析できず理解できない。

だけど、もしこのnoteを女性が読んでいたらこれだけは覚えておいてもらいない。
男性が分析できる女性像というのはあくまでも男性的手法(論理、データ、統計)等の数値やおもてに表れ出てくる客観的な、現代科学で分かっている範囲内だけであり、そこから零れ落ちるもっと不確かで今までの社会では軽んじられてきた感覚とかふわっとした何となくでしか分からない何かは私達女が分析していかなければならないのだ。

そろそろ男性のおんぶにだっこからは降りないと、永遠に男性の語る女性像が本当のナマの女性からどれほど乖離していようとそっちが正解の世界が続いていく。

せっかく男性が女性を分析してくれているのでそれはありがたく使わせてもらいつつも、そろそろ自分の足で歩く時だ。



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