ピアノ阿修羅を終えて

10月26,27日、ついにピアノ阿修羅の演奏会が終わりました。私は全7曲弾きました。その前週にあった東慶立合同演奏会でも2曲(ラフマニノフピアノ曲に基づいて私が作った曲)弾きましたから9曲演奏予定で持っていたということですね。それも演奏困難な曲が多かったので9月下旬辺りから、篦棒に大きな怪物が近づいてきている感覚でした。これだけエントリーしたのも、量こなす力を付けたかったというのがあるのですが。ピアノ阿修羅を終えた10月末に一旦ここで思ったことなどを書いてみようかなと思います。

ピアノ阿修羅1日目で弾いたのはO.エイゲスのピアノソナタトッカータ、L.オーンスタインのロシア組曲より最初の曲「ドゥムカ」、K.S.ソラブジの超絶技巧練習曲第99番。
 まずエイゲスを1曲目に持ってきたのは、エントリー時におそらくいちばん弾きにくいと思ったからです。つまり自分を鍛えたいという欲求があったのですが、案の定これを最初に弾くのはかなり難しかったです。手に脂の乗っていない状態で弾くんだったらさらにもっと練習しておくべきでした。バリバリの形式主義で書かれた曲なので、その形式が明瞭でなくてはならない。それぞれの旋律が実に完成度の高い状態で演奏されて初めて形作られる音楽なんじゃないのと思っても、もう後の祭り。
 2曲目オーンスタイン。通して弾いて具体的なミスはそれほどなかったものの、急く瞬間(16部音符)の処理を杓子定規で考えてそのまま演奏するのは、あまり印象に残らないものになってしまうのではないか。とこれは練習の段階から考えていたのですが音量のバランス、フレージングなどを考えた時に、この速度、この音量、この音数の曲を本番で演奏するのだったらもっと適切な発音があったのではないかと思ったりもしました。
 3曲目ソラブジ。この曲を弾くのは2回目です。初めて弾いたのは先月9月の初旬、その時の練習は本当に苦しかったです。練習が大変とか弾きにくいからとかそういうのではなく、「この演奏でいいのだろうか」という迷いです。このページの終盤でも書きますが、こういったマイナーな曲って過去の演奏音源があまり見つからないのでどう弾くべきかなどを自分で創作的に考えていかなければならならなかったりします。創作的といってもそれは楽譜そのものを改変してしまうとかそういったものではなく、要するに演奏史の構築に自分が極めて重要なレベルで関わっているという自覚を持って取り組むことだと思います。
私はマイナー楽曲それ自体が既に演奏史という学術に直接貢献するほどの強度を持っているとは考えていません。例えば認められたり、知られたり、メジャーになったり、第一人者が生まれたり、普遍性を持出せることの方が先だと思っています。じゃあ私はその根幹部分を担うことになると。この重圧は感じたことのない苦しさです。それでも本番は自分なりの回答をお披露目するわけですが。結局9月の初お披露目では本番2日前に自分で納得できる演奏に至れました。そして1ヶ月と少しが経ち、ピアノ阿修羅で再演となったわけですが、拘ったことを最低限はできました。ただ最後の巨大な波状のテクスチュアの処理はもっとパワフルにした方が良かったかと後になって感じ出しています。
 2日目の最初はゴドフスキーショパンエチュードNo.50、これはエイゲスもそうですが、もっと余裕を持って弾ける状態で持っていかなければならない作品でしたね。こうした大変な曲をたくさん練習することに対して感じたことは後でまた書きます。
 2曲目スカルコッタス、この曲「わかるわ〜」って感じの曲なんですね。あって欲しいところに音があって、あって欲しいけどでも本音を言えばない方がいいかもというところはしっかり音を抜いてる、そんなかんじの曲です。この作品もテクスチュアの一つひとつにメリハリを持って弾かなければならないと思いましたがどうも無窮動性を意識しすぎたかなというのがあります。
 3曲目フィニッシー、イングリッシュカントリーチューンズは小学生の時に知ってからずっと好きな作品です。セクションごとの音量バランスはまあうまく行ったのではないかと思います。プログラムノートにはこう書きました。

(・・・)密度と連桁の絡み具合を見るに、音域が跳躍して隣接する音は、あまりエイムに時間をかけないよう心掛けた方がよいと思われる。かなり跳躍するアルペジオも登場するため、そうしたニュアンスの差を出さないといけない部分は敏捷性を持って弾かないと、弾力を伴ったしなやかな筋肉と関節の動きで処理しようとすると、音に粘着性が出てしまい、これらの音同士の関係性が十分に表現できないのではないかと思われる。脱力と力みの瞬間を極めて細かく考えて取り組む必要があるだろう。(ピアノ阿修羅2日目のプログラムノートより)

これは充分守って弾けたのではないかと思っています。変に手に力が入り突き指しましたが、次の曲を弾くときにはもう痛みが取れていました。気をつけなければ。
最後にソラブジラヴェル、これは爆発的なエネルギーが必要だとは思いますが旋律が聞こえてくる必要があります。もっと旋律を出すべきだった(その他を抑えるのではなく)と本番を終えて思いますね。こちらもプログラムノートに書いた文章を少し載せて、ピアノ阿修羅での振り返りを一旦閉じめにしたいと思います。

(・・・)旋律や和声進行が比較的わかりやすい曲なので、音の数や身体の運動量は恐ろしいもののあくまで
も古典作品を弾く感覚を忘れてはいけない。ラヴェルの原曲くらいのテンポで弾くのは、不可能でない
と思われるものの、丁寧かつ猛烈な量の練習が必要になるだろう(ピアノ阿修羅2日目のプログラムノートより)


 ピアノ阿修羅で弾いた曲を個別に振り返るとこうなりますが、ピアノ阿修羅にエントリーする前、スピード重視で曲を譜読みすることが多かったように思います。もちろん例外的に1曲をじっくり取り組む時期もありましたが、演奏困難曲に積極的に取り込むピアノ演奏シーンにおいては「無茶だと思われることができるか」が重要だと思っていました。その中でどれだけ精度高く仕上げることができるか、が勝負になってくる。これが私のイメージするいわゆる「超絶技巧系」の世界で、今もそのイメージはあまり変わりません。
しかし大量の難曲を持つと次は「同時並行」で仕上げていく力が求められると考えていました。今回はその力をつけようと奮起しました。かなりの時間ピアノに向かいましたね。しかしやはり今回ピアノ阿修羅を終えて、完全に同時並行で譜読みから進めてくのではなく、一曲ずつもう本番同様に仕上げた状態にしておく必要があると感じています。特に今回だとエイゲスとゴドフスキー、私は未だにこの音楽の正体をわかった気にすらなれていないです。プログラムノートに載せるような「曲目解説」はできるのですが、自分の肉を通じた実感と音楽の関係性まで味わうことができなかったです。これを味わっているかいないかは聴き手にもモロに伝わるものだと思います(いわゆる「音が浮いてる」状態はこれなんじゃないかと思ったり)。

ともあれ、また来年もピアノ阿修羅にエントリーするつもりです。何を弾くか、すでに考え始めています。


今回初めてピアノ阿修羅の活動に参加して個人的に考えていたことなど↓

 ピアノ阿修羅で取り上げられるような曲はあまり一般的なピアノコンサートでは見かけない曲ばかりです。よく「隠れた名曲」という言葉で曲紹介されることがありますが、ここでいう「名曲」は大衆あるいは学術的評価を得ていないものの、知る人ぞ知るレベルであったり個人レベルで高い評価を持たれている曲のことを指すことが多いのではないでしょうか。ではピアノ阿修羅は「隠れた名曲」ばかり取り上げられているかというとそれも少し違う。まだ「名曲」かどうか演奏者自身もわかっていない状態ですらあったりする。それでもそのピアノ曲を信じて練習してお披露目する。そうした曲目もあったりします。結果「よくわからんかった」で終わる可能性も充分あり得ます。価値が全く担保できていない状態で出会った曲に、取り組む中で何か見えてくることを信じている。これは私の考えでは創造的なプロセスでもあると思います。聴き手としても客席に座っていましたが、この作品、この演奏に価値をつけるのは自分だという自覚が他のコンサートより重くのしかかってきている気がして、自分がこれから紡がれる音楽史の小さな、本当に些細なことかもしれない一部分をこねくり回してる気がする演奏会だと私は思いました。

来年はどうしようか。演奏行為というものをもっと丁寧に解きほぐしていこうか。1年後、自分なりの回答をまたお披露目できることを楽しみにしております。

2024年10月30日


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