見出し画像

1-5 血糖値の変化と気持ちの関係(こころをつかむ診療術)

1-5 血糖値の変化と気持ちの関係

このNoteの目的などは下記リンク"はじめに"を参照してください。
今回は、心理や感情に焦点を当てた診療に関する「こころをつかむ診療術」の第5回。外来診療において血糖コントロールが良くなったり、悪くなったりなど治療状況が変化した時の対応を考察します。

”はじめに

https://note.com/kyf2919/n/nc00631e9b06f

1) 合併症リスクと気持ちは比例しない

糖尿病診療を行っていると、患者の反応は多様であるとつくづく思う。糖尿病は、慢性疾患であり、その診療は山あり谷ありである。年末年始をあければ正月に食べすぎてしまいましたと、血糖コントロールが悪化する人も、野菜中心の生活にしてみたら血糖コントロールがみるみる改善する人もいる。血糖コントロールの最もよく使われる指標はHbA1c (約2ヶ月の血糖コントロールの平均に影響を受ける)である。一般的な目標値は合併症の進行予防が期待しやすいHbA1c 7%未満だが、それの上下で人の気持ちは動きうる。血糖コントロールが良くなり、HbA1cが下がった患者は喜ぶし、反対にHbA1cが上がった患者は悲しむ。しかし、その反応の仕方は人それぞれである。例えば、ずっとHbA1c 6.3%程度で非常に良好なコントロールの人が、6.6%に少し上昇したら、「まずいですね」と言って、顔を曇らせ、不安でいっぱいになる人もいる。医療者側からすると、いい血糖コントロールのままであることには変わらず、そこまで心配しすぎなくてもいいのにと感じることがある。反対にずっとHbA1c 9%程度で9%が10%に上がってもあっけらかんとして、全く行動変容をしない人もおり、こちらが心配で気を揉むこともある。

2) プロスペクト理論

参考になる話として、行動経済学の分野では、プロスペクト理論というものが提唱されている。行動経済学は心理学と経済学を融合したものだが、人間の意思決定や気持ちが必ずしも合理的な確率に依存しないということが提唱されている。次の図がプロスペクト理論における状況を表している。縦軸は感情で、上に行けば行くほど嬉しく感じる、下に行けば行くほど悲しく感じるという意味である。横軸はメリット、デメリットのことを表し、経済で言えば右に行けば行くほど儲けが出る、左に行くほど損がでている状態を表している。

図1 プロスペクト理論のイメージ

このイメージ図にはいくつかのポイントがある。
1つは、「損失回避性」である。メリットが出た場合の傾きよりも、デメリットが出ている場合の傾きの方が大きいと多くの人は感じるのである。例えば、図2のように、5万円を得した場合の喜びと5万円の損失した場合の悲しみは、悲しみの方が多くなる。5万円払って参加できるゲームで、コインの表が出れば11万円もらえるが、裏が出れば何ももらいない。期待値を計算すると若干メリットがあるという理屈になるのだが、多くの人は参加しない方を選ぶ。5万円を失うことをより恐れるのである。このような心理が備わることによって、リスクを取り自分を危機に晒すことを避けるということにつながり、進化的に有利だったのかもしれない。

図2 損失回避性

もう1つは、「感応度逓減性」である。簡単に言えば、気持ちが麻痺していくというものである。図3のように、5万円損した時、15万円損した時を比べると、金額的には3倍になっているが、悲しみは3倍になるわけではない。損失と気持ちは比例しないのである。

図3 感応度逓減性

3) 糖尿病診療におけるプロスペクト理論

このプロスペクト理論は糖尿病診療を含めた医療にも応用が効く。糖尿病で言えば、メリット・デメリットはHbA1cの改善、増悪で見ることができる。喜び、悲しみは患者がそれをどう受け止めるかである。
少し大袈裟ではあるが、はじめに話した6.3→6.6%に悪化しただけで、不安を強く感じ、悲しみに暮れる患者さんであれば、図4のように解釈できる。HbA1cに比例して気持ちが動くとした場合の理論的な変化をオレンジの点線で示している。医療者は客観的な事実や多くの患者を比較しており、このオレンジの点線のように物事を考えがちである。しかし、患者側からすると、初期の損失は大きく感じるのである。些細なことかもしれないが、「損失回避性」が備わった患者には大きな痛みとして感じることがある。

図4 HbA1c 6.3→6.6%に悪化した人の気持ちの変化

反対に、HbA1c 9→10%に悪化してもあっけらかんとしている患者さんでは、図5のように解釈できる。元々血統コントロールが悪い人には、さらに悪化しても、感覚が麻痺しており、それ以上悲しみを感じにくくなっている。すなわち、 「感応度逓減性」が備わっている患者さんからすると、それ以上の痛みは伴うことは少なく、行動変容が必要な人でも行動変容につながりにくくしている要因にもなる。

図5 HbA1c 9→10%に変化した人の気持ちの変化

4) 参照点と医療者の乖離

医師は医学生の頃から糖尿病を習うと、糖尿病の合併症は血糖コントロールと相関して、合併症リスクが高くなると習う。例えば、熊本StudyによるとHbA1c 7%程度まではほとんど網膜症が増悪する人はおらず、その後、HbA1cが上昇するにつれて合併症発症率が増えている。そのため、年齢や併存疾患などの状況に応じて目標値は変わるものの、合併症が生じにくいHbA1c 7%未満が一般的な目標となっている。

図6 熊本Study

医療者はこのような知識をもとに、合併症リスクを考え、それに応じてどのような治療が必要になるかを期待する。そして、自分がそう考えているため、患者も同じような気持ちになっていると、無意識に思ってしまう。そう思ってしまうと、上のような患者の状態が理解できなくなってしまうのである。その状態では、下手をすると患者とのすれ違いが生じる。HbA1c 6.3→6.6%に上がった程度で何を心配しているんだと、患者の不安に寄り添えないかもしれない。HbA1c 10%まで悪くなっているのに、なぜこの患者は向かおうとしないのかと理解できず、怒り出したり、匙を投げてしまう。しかし、そうではない。上のように考えると、患者は決して変ではなく、上のような患者の気持ちの変化はは多くの人に見られる、自然なものだということが理解できる。これを理解することによって、患者がなぜそのように思っているかがわかり、冷静に対処できる。医療者と患者のギャップを理解することが、第一歩である。
さらに言えば、「参照点依存性」というものがある。参照点とは、上のプロスペクト理論でいう原点の部分である。これも、ある種の慣れである。例えば普段は1万円で売られていたコートが7000円で買えるなら、人は得をしたと感じる。今まで500円で変えていた牛丼が物価高で700円になっていたら、他の料理よりは安くても、高くて損をした気持ちになる。絶対的尺度よりも、感情は、「普段ならこうなっている」という期待値をもとに、それより良いか悪いかで決まるということである。血糖コントロールでいえば、普段HbA1c 6.3%の人の参照点は、6.3%に設定されている。そのため、6.6%でも悪くなったと感じてしまう。逆に、普段から9%の人は、9%くらいに設定され、変動の範囲内と感じてしまう人もいる。

5) どのようにするか

この「こころをつかむ診療術」では、日常診療で、具体的にどのような言葉を選ぶべきなのか(と私が考えている)というアクションまでなるべく言及したいと思っている。そのアクションは、患者の幸せにつながるように、できればポジティブな方向性が良いと思っている。
患者が必要以上に不安になっているのであれば、問題ないことを伝えて、不安を適正なレベルに下げてあげる方が良いと思う。医学を学んできた医療者として、なぜ大丈夫だと思うのかを伝えるのである。数字やグラフは効果的な場合がある。図6のような熊本Studyのグラフや、ガイドブックに載っているようなHbA1c 7%未満の目標値の図を示していいと思う。
「確かに、今回は少しだけHbA1cが普段高くなっていますね。ただ、一般的にHbA1c 7%未満では、糖尿病の合併症はそれほど進まないということが研究でわかっています(図を見せても良い)。そして、過去の記録を見ると、去年からずっとHbA1c 7%未満の目標は達成できていますね。これはあなたが普段から血糖値に注意して、日頃の生活に気を遣っているという頑張りが表れていますね。ぜひこのペースでこれからもやっていきましょう。」1人目の人に私が声かけるとするとこのような感じだろうか。何か今回は運動不足や食事療法の乱れで血糖コントロール増悪しているかもしれないが、それを注意するよりも、これまでの頑張りを賞賛して認められれば、モチベーションが上がり、前向きな気持ちで自然に頑張れる人も多い。そして、ダメだったと肩を落として帰るより、自己肯定感を高く持ってもらう方が、診療の究極的な目標である「幸せ」に些細なことでも近づいていると思われる。
「今回、HbA1c 9から10に増えてしまいましたね。過去の研究で、このようなグラフを見ると、HbA1c 10%だと1年間で100人のうち、10人もの人が目の合併症の悪化をきたすという形になっています。これが長く続くと、その確率はもっと高くなってしまいます。目を悪くすると、今の生活に支障をきたしますし、あなたも望むことではないと思います。一度改めて、血糖値をよくする方法を考えましょう。」2人目があまりにリスクを過小評価している場合は、絶対的尺度でのリスクを伝えることが効果的な場合もある。一過性にはネガティブなテイストになってしまうが、それで頑張り改善したらまたポジティブなテイストに戻すことはできる。他のポジティブに伝える方法が、別の章で記載したい。もう1つは参照点が9%になっている場合は、それを是正するのも手である。入院したり、薬物療法の強化で改善し、まずは良くすることである。それにより、HbA1cが例えば7%程度が普通の状態と感じられるようになれば、8%でもまずいと思って、生活習慣の変容が得られるようになる。
医療者は心理の専門家ではなく、このような議論に触れる機会は少ない。それが故に、患者がなぜそのような言葉を放つのか、どうしてそのように考えているのかということにはあまり目を向けない。しかし、患者がやろうと意欲を見せるのは、感情に大きく左右される。そして、その感情というのは医学的な理論値では測れないものである。患者の気持ちを考え、行動変容につながるような言葉がどのようなものなのか、という議論が広がることを願う。

いいなと思ったら応援しよう!