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「ちゃんと」相手のことを考えるということ

誰かの話を聞いて、「なんでそうなるのよ(笑)その判断は理解できないな、普通に考えて、こういう風にした方がいいんじゃねえか?」となることはよくある。
でも本当に考えるべきは(そして楽しいポイントは)、「普通に考えたらこうだと思うけど、この人がそう考えるのはなんでだろう?その理由はなんだろう?」ということではないだろうか?

誰か大切で対等な人の相談を受けるとき・話を聞くときには、自分なりに考えて結論が出た上で、相手もその結論を一度通った可能性があることを考慮に入れるべきだ。

「普通に考えればこうなる」ことは、(よっぽど知能程度に差がなければ)きっと彼にとっても普通に考えればわかることで、でも現時点で彼がそういう結論に至っていないということは、そこにこそ、むしろ大切な何か理由があるのじゃないだろうか。
なぜならそのポイントこそが、「その人の置かれた今の状況・今の心理状態だからこそ見えている障壁や道」あるいは「その人固有の思考の進め方・思考の癖」そのものだということになるからである。
そのポイントを踏まえないで、自分が自分の視点から考えて出した結論(ならまだいいけれど、僕なんかはパッと反射的に出せる浅い一般論をその場の結論として相手に返してしまうことも多い)を相手に投げ返しても、建設的な議論にはならない、というか、彼のポイントは解消されないままだろう。
だって「客観的に考えて『そうならないこと』」こそが、今の彼の議論するべきポイントなのだから。

本当に誰かに寄り添って考えてあげるというのは、論理的・客観的に問題点について考えて、そこに自分のこれまでの経験及びそこから得た知識(経験してもないのに得た謎の浅い知識は持ち出さない方がよいだろう)や自分が思うその人との将来の理想の関係性を踏まえた意見を足して自分なりの意見としてまとめた上で、それはそれとして置いておき、じゃあその相手は今一体何に引っかかって(自分にとっては)正しいと思える選択肢に至っていないのか?ということを想像してあげることだろう。

周りくどい言い方をしているように思えるかもしれないけれど、このポイントをすっ飛ばしてしまうと、それはただ「自分の言いたいことを言ってるだけ」のやつになってしまう。
1人で喋る分にはいくらでも悦に入っていいけれど、それは決して相手に寄り添って相手の抱える問題を解決してあげたいという相手のための親身な姿勢ではない。
俺の正解を聞け!俺の人生を聞け!
要するに自分の話をしたいだけ、である。

僕の知っているかっこいい大人はみんなこういう親身な姿勢を持っている。
みんなそのくらいの深さを持って、僕の話を聞いて、想像してくれる。
それに僕は憧れるし、何度も救われてきたから、自分もそうなりたい。

自分への戒めとリマインドのために。

20230430

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