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小説『道化師の雫』

2014年、1月。
あの冬は例年より寒い日が続いていて。
「そう言えば世界的にも猛寒波が来てるらしいで」なんて、どうでも良いような天気の話を、渋谷のど真ん中のカフェでしたのを思い出す。
お前はベンティアドショットなんちゃら~って生クリーム盛り盛りのけったいな飲み物を頼んでて。俺が顔を顰めると「やらねえからな」ってガキみたいにカップを遠ざけてみせた。

「要らんわ、んなクソ甘そうなもん」
「お前にはまだ早い」
「いつが適正年齢やねん。ここ煙草吸えへんの?」
「そろそろ禁煙しろよ。体が資本の仕事だろ」

よく考えると、あの頃すでにあいつは標準語を喋っていた。上京した時期は一緒だったのに、母国語である関西弁はとうに消え失せて。当時の俺はそんなことにも気付いていなかった。いや、側にいすぎて、あいつに寄りかかるのが自然すぎて、考える必要がなかった。

「ほんでなんやねん。家で話せや。俺、この後仕事やねんぞ」
「ああ…」

仕事と言っても駆け出しの役者。あの頃はリハの代役くらいしか回って来なくて、夜勤バイトで食い繋ぐ日々。だからこそ、悔しかった。苛立っていた。徐々にデザイナーとしての依頼も増え、家でも忙しそうに作業に没頭しているあいつに、分からせてやりたかった。「お前がいなくても俺は生きていける」って。

「…お前さ。そろそろあの家、出ないか?」

それでも。咄嗟に縋り付きそうになった。
違う、そう言う意味やない。こんなはずやなかった。ひゅっと喉奥に息が張り付いて、髪をイジっていた指先が揺れた。あの時より少し昔の俺だったら、幾らでもダダこねて、一緒におりたいって甘言を告げられただろうけど。

「ええよ。別れよか」

チンケなプライドはそれなりに強い。幼い頃からダラダラ続いてただけの関係くらいは、案外簡単に崩れさせる。はなから共にいる約束も、愛し合ってる確認もしていない。セックスなら誰とでも出来る。意地を張る相手は何もコイツじゃなくても良い。
——何よりも、こいつが俺から離れられるわけがない。

「ほな、さいなら」

お前は何やら女々しく抜かしてたが。あっさりさっぱり。
生まれて初めて俺は、あいつと別れた。

「ホンマにすんの?」
「うん」

生まれて初めてキスをしたのは、高校1年の夏だった。
俺は16で、あいつは一個上の17歳。思えばベッタベタなシチュエーションだ。
お互いの家の近所にある神社の高台。「ガキの頃はようけ山が見えたのになあ」なんて様変わりする田舎の風景を憂いながら。俺はあいつにねだった。

「ほっぺのがええんちゃう?」
「なんで?」
「唇て、あれやん。特別やし」
「練習や言うてるやん。ちゃんとせな。何や照れてんのかいな」
「アホ、誰が照れるかお前相手に」

建前は、キスの練習台。当時俺には彼女がいて。まあそれも登下校で並んで歩く俺と女を分かりやすく死んだ目で見つめて来るアイツの反応が面白かったからなんだけど。試してみたかった。あいつがどれくらい俺のこと考えてんのか。どれくらい、俺の言うこと聞いてくれんのか。

「来週、デートやしな。バチコーン決めたんねん」
「はあ……なんで男とキスせなならんの」
「わーわー言うなや。ジッとしとけよ」

俺より少しだけチビなせいで、あいつは上目使いになる。
童顔のくせにヒゲが濃くて、夕方になると口の周りが青くなるもんで、仲間内でも「ドラえもん降臨や!」って随分とイジりまくっていた。置かれた手にぴくりと震える肩。その時点でやめときゃ良かったのに。

「はは、きしょ」

今この瞬間、こいつは俺しか見ていない。俺のことしか求めていない。そのことに身震いするほど興奮した。高笑いの一つでもあげてみたいほどの、愉快。自覚できるほど頬が緩んだから、あいつはさぞかしゾッとしたやろう。抑えきれなかった、隠しきれなかった。
コレは今から、俺だけのもんや。

「あたっ!」
「お前アホか、目ぇ潰れや!」

まあそれでも結果はお察し。所詮童貞同士のお遊びや。角度やら作法やらそんなもんAVの知識しかない。カチ合った歯を押さえながら、あいつは涙目で俺を見上げる。思わず噴き出してゲラゲラ笑うと、惜しいなって気持ちの代わりにツバが飛ぶ。

「汚っ!ホンマありえへん。きしょいのはどっちやねん」
「やっぱあかんわーおもろすぎるわ」

だめだ。俺たちはもうだめだ。
袖で顔を拭くあいつは、もう俺を見つめてはいなかったけれど。このまま心まで離れてしまうだなんてこれっぽっちも思わなかった。俺はこいつが欲しかった、こいつは俺を受け入れた。その事実が俺たちの人生に横たわっただけで、もうこいつは俺を失えない。

「誰にも言うなよ。俺、お前みたいにネタキャラとちゃうし」
「俺もちゃうわ」
「イジられんのはお前だけで十分やー」

ただの願いだった「離れたくない」が、
あの時から、呪いのような「離れられない」に変わった。
その帰りしな、俺は何だかホッとして、その分幸せすぎて不安にもなって。「お前も練習するか?」ってあいつに唇突き出してみせたけど。「今は、あかん」って素っ気なく返されて。やっぱり声を上げて笑ったのを今でもよく覚えている。

「本当にキスするの?」
「はい」

5年前、10年前と遡って。何で今更、あいつとの出来事なんて思い出したかと言うと。この日常にもそれなりに慣れてきたからだろう。あいつと別れてから、俺を取り巻く環境は激変した。良い意味で、って言いたいとこだけど。悪い意味でも。

「リハでまですることないよ。カメラ回してないし」
「でも本番だけじゃ気持ち作れないですし。ね?」

傍らにいたのは、最近売り出し中で青春ドラマ出まくってる女優さん。もう制服姿ええ加減世間も飽きたんちゃうの。初めてのキスシーンで随分とカチコチになってたから、追い打ちをかけてやる。せいぜい初々しい感じでぼろ儲けしとき。今のうちだけやで。俺なんかもう俺自身が初々しさ売りに飽きとる。

「私やります、宜しくお願いします」
「よし、それでこそ女優だ。大丈夫、俺に身を任せてね」

絆すようにそう囁くと、彼女は頬を染めて小さく頷いた。眼下にあるのはぬらぬらと真っ赤に染まった唇。ため息とバレないように呼吸を逃がす。気持ち悪いこと、汚いこと、嫌なこと、うんと熟してきた。一々熱を込めていては、熟れたトマトもジュクジュクに腐る。

「それではテストいきまーす!」
「はい、よーい」

監督のスタートの声も遠く彼方に聞こえる。カットがかかって気付いた時には、俺の唇にはべったりと真っ赤な跡が移っていた。舌打ちとバレないように腔内を噛む。何で自分がこの仕事を選んだのか、今だったら良くわかる。偽るのは得意だ、隠すのもお手の物。誰かでいる間だけは、自分でいなければいい。デザイナーみたいに、四六時中他人と向き合ってる必要もない。

「さすが名俳優!プロの仕事だね」
「本番も、宜しくお願いしますっ!」

自分を殺す。それだけで褒めてもらえる。金もしこたま手に入る。ほんま天職やで、なんて。あいつに言うたらどうなるかな。「役者なめんなや」って自分役者でもない癖に怒られるやろか。それとも「無理すんなや」って悲しい顔するやろか。
———どっちも嫌やな。どうせなら、何も言わんと抱き締めて欲しい。
そんなん許されるわけないけど。

「打ち上げ、どうされます?」

大道具さんがセットを壊し始めて、木材のガンガン鳴る音がやけに頭に響く。メイクを落とすのと一緒に擦りまくった唇を見て、スタッフさんは「赤くなって色気が増してますよ」と知ってか知らずか苦笑いした。

「参加出来るってマネージャーには聞いてます」
「そうですか!場所お伝えしときますね」

今回は予算多いんで豪遊できるんですよ~なんて言いながら、スタッフさんは参加者名簿を取り出す。普段なら力持ってそうなお偉いさんかスケベそうな共演者の出欠だけを確認するところだけど。金槌でも打ち付けられたように、妙に視線が滑る。どうでも良い名前が詰め込まれた列の中で無意識に見つけてしまったのは、どうでも良くない名前。

「これ」
「デザイナーさんです。今回の女性キャストの衣装担当の」
「へえ」
「新進気鋭の売れっ子らしいですよ。彼女同伴でいらっしゃるって」

へえ、ともう一つ言葉を重ねたかどうか記憶にない。四方八方うるさいスタジオに、今ばかりは感謝した。小刻みに振り落とされる痛みには、退屈するほど慣れていたけど。たった一撃の方が深層まで届くんだって、きっとネジや金具も一緒だろう。今更断れる理由もない。
生まれて初めて俺は、あいつから離れたいと思った。

今から3年前、一度だけあいつを見掛けたことがあった。
何をしていたか、何を考えていたか。俺自身、あの頃のことはほとんど思い出せない。ただ、その日のことだけははっきりと覚えてる。

――深夜の街中だった。あいつは、別れた頃と何も変わらない姿で、なぜか血相変えて歩き回っていた。

「何やってんねん、あいつ」

ぽろりと零れた言葉が空気を揺らして、自分が笑ってると気付いた。手元から空になったショットグラスが転がって、けたたましく砕け散る。汚いモノを摂取しすぎて、肺からヒューヒューとか細い音が漏れていた。吸うのも吐くのも苦しい。喉もカラカラに乾いている。脳内は悪夢のように次々と景色が変わって全くアテにならない。

「なあ、何見てんだ?」
「黙れ」

声を掛けてくる誰かの声も、今は酷く歪んだノイズに聞こえる。全てが俺の邪魔をしようと襲ってくるから。血液を逆流させるサウンド、姦しい客たちのざわめき、視界を化かすネオンの乱点滅。それでも、あいつだけは途切れもせず独りで光って見えた。だから、俺も見失わずに済んだんだ。目を離さずにいられたんだ。

逃げていたつもりはない。隠れたり避けたりする余裕もなかった。飽きないことに必死だったから。あいつのいない世界は思ったよりもつまらなかった。過敏ほど感じやすかった肌や指先は、もう温感も痛覚もなくなったみたいに刺激に強くなった。少々撫でられたり叩かれたくらいじゃ、声も出ない。全然気持ち良くない。

路上を行き来しながら、道行く人に声を掛けているあいつ。
街を見下ろす、窓際のカウンター席からその姿を確かめながら。
気付くと俺は、泣いていた。

「…来るな、こっち来んな…っ」

蘇ったのは古い古い記憶。木造の古臭いボロアパートの匂い、安っすいベッドがギリギリ言う音、カランと氷入りの麦茶が鳴って。あいつはガラスでも扱うように大事に俺を抱いた。エロいことだけしたかった俺にはその仕草は酷くじれったくて。終わった後はいつも喧嘩みたいになった。先に折れるのはいつもあいつやったけど。

頬を撫でる吐息に安心した。滴る汗を得ようと舌をのばした。繋がりを解きたくなくてしがみ付いた。お前が感じてんのは誰でもなく俺なんやって思い知らせてやりたかった。忘れるわけない。結局今も昔も、欲しいものはあいつだけやったのに。

「はぁ…俺から離れろ、離れてくれ…」

その時の俺は、無我夢中で願った。
どうか神様、あいつが俺を見つけませんように。こんな俺に会ったら、きっとあいつは傷付いた顔をするから。両手を広げて包み込もうとしてくるから。甘える権利も飛び込む勇気もないなら、いっそあいつが俺から離れて生きますように。今思えば都合のいい考えや。あいつが俺を探してるなんて、そんなはずないのに。

打ち上げ会場は、タワービルの屋上展望台やった。
夜やったら良かったのに。こう明るいと色々めんどい。

「やっと来たーー!待ってましたよぉ♡」

例の青春女優が、肩丸出しの流行りの服に身を包んで、大袈裟な甘え声で呼んでいる。彼女の周りには、鼻の下限界まで伸ばしたようなおっさんたちがわらわらと取り囲む。気付いてんねやろ?その不躾なおっぱいへの目線。意外にやるやん、との思いを込めて手を振り返した。

「コーラあります?」
「アルコールじゃなくて良いんですか?」
「俺、飲めないんで。ストローも一緒にもらえますか」

一通り挨拶も終えると、ガラス窓にもたれてスタンバった。ここで台本でも開いてれば誰も寄ってこない。ドリンク持ってれば飲んでないってイチャもん付ける奴もいない。

下界に目を映すと、様々な色が飛び込んでくる。
赤、白、黄色、緑に青。世界には俺が知るよりもずっとたくさんの色があって。あいつはそれを掛け合わせることで、新しい何かを生み出していた。いつやったか「恋愛みたいなもんや」なんてアーティスト気取って言ってやがった。

今の俺の格好見たらびっくりするやろな。昔は髪もワードローブも黒一色やったのに、随分カラフルになった思うで。色はいっぱい覚えたけど全部混ぜたら黒にしかならんかったけどな。

「誰かと思った。こんな目立つ服着るようになったんだな」

背後から聞こえたのは、相変わらず胡散臭い標準語。喋り方は変えられへんか。すぐに分かってもうたやないか。

「おう、天才デザイナー様じゃん」

じゃん、やって。俺の標準語もまだまだや。

「さっきの美人、彼女だろ?良いよな売れっ子は」
「お前も人気だろ。テレビ出ずっぱりじゃねえか」

真っ先にぶっこんで質問責めにして、あわよくば怒らせようと思っていた計画は、あいつのテンションによって序盤で叩き落とされた。何やねんその髭。何やねんその帽子。俺の知らんお前なんかきしょい。

「久しぶりなんやし、関西弁で話そうや」
「ああ、もう忘れたな」

あいつの取り繕った笑顔が分かりやすく崩れた。相変わらず顔に出やすいな。こんなんで本当に世知辛い世の中渡っていけてんのかいな。そんな痛そうな顔晒すなや、決心鈍るやろ。

「お前もいい加減忘れたら?お互い今はこうなれた訳だし」
「え?」
「男と付き合って同棲してセックスしまくってた過去なんてリークされて困るのは俺も同じなんだよ。黒歴史でしかないだろ。文春砲って知ってるだろ?過去まで根掘り葉掘り探られるんだぜ。今のうちに真っ白にしとかないと」
「嫌や」

耳を疑った。こいつが俺に否定の言葉をよこしたことなんて、出会って10年一度もなかったから。あかん、やめろ。ガラス窓に映った俺の仮面が、溶けてまう。

「別れた日から今日まで、ずっとお前を待ってた。俺たちが分かれて生きるやなんて出来るわけあらへん。昔みたいにどっかで体育座りして待っとるはずやって。俺が迎えに行ったらなって。そこら中探し回った」

差し出された手が誘う。

「帰っといで」

この手を握り返せば息ができる。どんな役でもない俺自身を生きられる。こいつと一緒に、明日を迎えられる。光のように真っ白な未来が待っている。
——だけど。

「もう、離して」

最上級の笑顔をお前にやろう。頬を伝う一滴の涙も、予定外やったけどオプションでつけたろう。声が震えないように、一世一代の大芝居。伊達に長いこと役者やってへん。お前やったらきっと騙されてくれるやろ。もう楽にしたるから。「離れられない」呪いなんか解いたるから。

「幸せになってくれ」

                        終わり


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