お耽美落語『湯屋番』
お忙しいところたくさんのお運びありがとうございます。まあ、ちょっとしたお楽しみ、お付き合いいただければと思うんでございますが。このところ「ニート」なんて言葉をよく聞きますな。つまるところが、働きもせずぶらぶらしている道楽者。実家でもって、お父ちゃんお母ちゃんにおまんま食わせてもらいながら
「あんた、一体いつ働きに出るんだい?」
「んーー?ロサンゼルスオリンピック始まったらー」
「あと4年後……もうすぐだね!」
なんつって、親御さんもついつい甘くなっちゃったりしてね。
ここ数年でさらに増えて、今じゃ23万人もいるだなんて、社会問題になってるそうでございますが。
時代は変われど人は変わらずとは言ったもんで、落語の世界にもこの「ニート」が登場いたします。「若旦那」なんて呼ばれる者たちでございますが。金持ちのボンボンで、酒に賭博に道楽三昧。挙句、家を勘当されちまったもんで、実家に出入りしてる職人の家なんかで、こう居候させてもらってる。居候と言うのも、余り褒められたもんじゃないですから、そのウチのおかみさんと仲が悪い。間に挟まりまして、亭主がマゴマゴしたりしておりまして――――
ここは、江戸外れのとある職人の家。
今日も「若旦那」は、おちょこ片手に気の向くまま、のんべんだらりとしている。居候先の主であるところの「大工の熊五郎」は、今日こそモノ申そうと、若旦那の向かいに胡坐する。
「あのね、若旦那」
「なんだい熊五郎。
お前も一杯やるかい」
「へえ、良いんですかい?
それじゃあ一杯だけ…ってそうじゃねえんですよ!」
「実家からくすねてきた上物だぞ。
ほれ、酒の肴もたんまりと、お前さんの嫁がくれた」
「旦那、そりゃうちの犬のドッグフードですぜ。
良いから、ちょいと話を聞いて下せえ」
「なんだいなんだい改まって。
随分と釣れねえじゃねえか」
おするすると、若旦那が熊五郎に這いよる。
「お前のたまの休みだろ?
せっかく昼間っから2人きり、しっぽりヤれるってえのによ」
旦那は『ク♡マ♡ちゃん♡』なんて耳元でもって甘く囁いてくる。着物越しに、太ももを厭らしく撫でられたりなんかすると、熊五郎もついつい好い気色になっちまいそうになるが。
「…旦那、今2人きりと言いやしたね?」
「お前のかみさん、もう働きに出た頃合いだろ」
「うちの犬がそっから覗いておりやす」
「フアッ!?」
「泥棒にはひと吠えもしねえのに。
嫁が言うには、NTR((寝取り)の番犬なんだそうでございますよ」
「あの女、トップブリーダーだなあ」
若旦那は、渋々と熊五郎の股間を揉む手を止める。
熊五郎は、ゴホンと咳をひとつ。
「まあそんなことでね、旦那。
最近、前にもましてぐうたら食っちゃ寝としてらっしゃるでしょ?
うちのかみさんも、あんたをよくは思っちゃいねえ」
「ああ、そのようだなあ。ぼりぼり」
「犬の餌食わんで下さい。
そこでね、あたし考えたんです。
短(みしか)い人生、こう時間を食い潰しちまうのも勿体ねえ。
いっそ奉公にでも出てみちゃあどうですかね?」
「ははあ奉公、奉公ねえ……。
『旦那、しっかり勤めさせて頂きやす』ってんで、色男に助平なご奉公をされるんなら大歓迎なんだがなあ。
『随分とご立派で、わっしのおクチにゃあ入りやせんよ』なんつって」
「そんなくだんないことばっか言ってるからいけねえんですよ。
実はね、旦那。
あたしの友達が、最近商いを始めましてね。人手が足りないってんで、ちょうど働き手を欲しがってるんですよ。
日本橋の槇町にある『奴湯』って銭湯なんですが」
「…ほほお」
銭湯、と聞いた途端、若旦那の顔がニヤリと悪くなる。
「銭湯、銭湯ってえと男湯はあるかい?」
「そりゃありますよ、男湯も女湯も。
電気風呂もミストサウナもコーヒー牛乳もありますよ」
「よしよし分かった。
男湯があるってんなら行こう。
どれ、紹介状でも書いてくれ」
そんなわけで、若旦那は喜び勇んで荷物をまとめる。意気揚々と、日本橋の銭湯に奉公に出掛けた。
「はぁあ~にっほんばぁしやっこゆぅ~♪
にっほんばぁしやっこゆぅ~♪
にっほんばぁし…あれ、何湯だったかな」
大通りを歩く若旦那。鼻歌なんか唄っちまって足取りも軽い。
「それにしても、僕がお湯屋へ奉公に出るなんてね。天変地異とはこのことだ、人生何があるか分からないからね。そうさ、もしか、奉公先で好い男(ひと)と出逢うってこともあるかも知れないしねえ」
想像するだけで、くふふと笑いがこぼれてくる。
「熊五郎の友達ってえのが、とんでもない美丈夫だったらどうしようね。
すぐに恋仲になっちまうのもつまらねえ。当然、そんな色男にゃ若い嫁さんがいたんだが、ある時、急な病で亡くなっちまう。食わず飲まずで泣き暮れる主人。
そこで僕の登場だ。潤んだ瞳で言うんだねえ。『お側におります、いついつまでも』なんつって」
不謹慎な想像はどんどんと広がる。
「よよよとその背に擦り寄り、手拭いでもって涙のひとつも拭ってあげちゃ、相手も形無し。『男の俺でも良いのかい?』ってなもんで、僕は後妻に収まり贅沢三昧、美人も手に入れ上々吉って寸法だ。……嫁さんが病気で死ななかったらどうしようね。そん時は、絞め殺すか」
と、まあ最終的に、ひどく物騒なことを口走りつつ。とうとう若旦那は、日本橋『奴湯』の前にやってきた。
「どうも、ごめん下さいまし。
今日から奉公に来たもんですが」
暖簾の奥に声を掛けるが、待てど暮らせど返事はナシ。
「こりゃ勝手に入って良いってことだな。
…うふふ、男湯から入っちまおう。
アチラもコチラも上腕二頭筋も見放題だよこりゃ。
どれどれ、お邪魔しますよ~と」
抜き足差し足コソコソと。
まるで盗人かなんかみてえに、ニヤニヤニヤニヤ隠しきれない怪しいツラで、若旦那は男湯の戸を開く。
ガラガラガラガラ、ガラリ。
と、飛び込んできたのは。
「きゃあああああ!!
男だよ!男が入って来たよ!!!!」
「いやああ!!
薄ら笑い浮かべて気持ち悪いったら!!
さっさと出てっとくれよ!!」
耳をつんざく『女たち』の黄色い声。
同時に、バシャバシャバシャリと熱いお湯を浴びせられる。
「アチ、アチチチ!!
なんだいこりゃ、どう言うこった!!」
「ちょいと店主、来ておくれ!!
女湯覗いてる変態だよ!!!」
「舌までべろべろ舐めまわして、妖怪アカナメみてえなヤツだよ!!」
お湯を掛けるじゃ飽き足らねえ。
そこらにある桶やタオル、コーヒー牛乳の瓶やなんかもザクザク投げ始める女たち。濡れネズミになったうえ、フルボッコにされる、妖怪アカナメもとい若旦那。
「何だい何だい!!一体どうした?」
悲鳴を聞きつけ、湯屋の奥から、店主も飛び出してきた。
「なんだ、あんたは」
「なんだ、あんたはってか?
そうです、私が変態妖怪アカナメネズミです、って違うよ。
あんたこそ何なんだ」
「あたしぁこの奴湯の女将だよ」
「はあ?ふざけんじゃないよ。
超絶イケメンの男店主はどこなんだい」
「そんなもんいやしないよ。
ここは女手一つであたしが切り盛りしてんだから」
「チッ」
「何でキレてんだい、意味不明な人だね。
どうせ女湯でも覗きに来たんだろ?」
「いんや、男湯覗きに来たんだよ」
「どっちにしろ変態じゃないか。
警察呼ぼうかね」
「いやいや、待っとくれ女将さん。
僕は今日からココに奉公に来たもんでね。
ほれ、これを御覧なさいな」
ってんで、男湯見るまでは追ン出されちゃ敵わねえ、とばかり。若旦那は、熊五郎の書いた紹介状を女将さんに差し出す。
「ああ、なるほど。
熊さんかい、話は聞いているよ。
あんた、随分な道楽息子だそうじゃないか。
おまけに、かなりの変態だって書いてあるよ、やっぱり。
ほら、蛍光マーカーで線まで引いてある」
「ご丁寧なこったね、そりゃどうも」
「まあ何だか知らないが、よく励んでおくれよ。
こっちは猫の手も借りたいくらいなんだから」
そんなことで、どうにか奴湯で働き始めることになった若旦那。
「まずは何をしましょうね。
お湯で背中をお流しする、三助でもしましょうか?」
「下心の隠せない人だね。
それじゃあ、ひとまず外回りでもしてもらおうか」
「外回り。そりゃあれですか?札束をカバンにつめて、湯屋を巡って男を研究する、ってそう言う?」
「とんでもないこと思い付く人だね。うちの店の周りの木屑やチリやなんかを拾ってきて欲しいんだよ」
「ああ、なんだ。
そりゃ止めましょう女将さん。
僕みてえなイケメンがすることじゃあねえ。
雇った意味がねえ」
「あんた、どの立場からモノを言ってるんだい。
それじゃあ、煙突掃除でもして貰おうかね」
「残念だが、それもいけねえ。僕があんな高いとこ昇っちまったら『ほうっ、良いオトコ!』なんつって、お空の神さんたちが攫いに来ちまう」
「いっそ今すぐ迎えに来て欲しいくらいだけどね」
「それに僕は、高所恐怖症の閉所恐怖症だしね!!」
「そんな偉そうに言うことじゃあないよ。
どうも使いづらい人だね、こりゃ」
その時、お湯屋の奥の方から、女将さん!女将さん!と声が掛かった。
「ああ、はいはい。分かったよ。
それじゃあ、あんた、仕方ない。
今から、あたしちょいとご飯を食べてくるから。
その間だけ、番台を見ててくれるかい?」
「ええ、ええ。
そりゃ、どどんと任せて下さいな。
どうぞ、ごゆっくり~」
なんてことで、いそいそと番台に上がる若旦那。
「へへ、ありがてえありがてえね。まさか初日から、こんな番台に座れるなんてのは夢にも思わなかったね。……さてさて。さっきは、間違えちゃって女湯なんか覗いちまったけど。問題の男湯はぁ~っと」
喜び勇んで若旦那、どれどれと男湯の方を見回すけれど。
「……なんだ、誰もいねえじゃあねえか。まだ時間が早すぎるんだね。
それに比べてどうだい、女湯のあの芋の子洗うみてえな混みようは」
がっくりと肩を落とした若旦那。
気は進まねえが、やれやれと高見の見物を始めた。
「ひい、ふ、み、よと、なんだ5人も並んで体を洗ってるね。5つのケツ、豪傑(ごけつ)ってね。女は強ぇからねえ。あんなに寄ってたかられちゃ、そりゃ僕だって、尻の毛まで抜かれて鼻血も出ねえやね。いやあ恐ろしや恐ろしや」
と、三番目に座ってるひとりが目に入る。
「ありゃあんなにケツに毛が生えて!男がいるかと思ったら、ありゃただのケツ毛のぼうぼうなばあさんじゃあねえか。何から身を守ってんのかね。あんなお尻を山で出してると、狩人に銃で撃たれるぞ」
まあ、こんな具合に独り言ブツブツ。
聞こえねえのを良いことに、言いたい放題の若旦那。
「やっぱりあれだね。女は、強くって逞しくっていけねえや。ドッグフードなんか食わせてくるヤツもいるしね。僕は男が好きだね、もっぱら」
そうして、ポンと手を打つ。
「そうだ、良いこと考えた!女が全部出払ったらね、女湯の入り口に釘打って、男専用の銭湯にしちゃおう。もう男湯だけ開けとこ。そうするとね、こうドバ――ッと男の客ばっかりやって来るよ。どう言うお客が来るかね」
番台でもって、若旦那。
すっかりと自分の世界に入っちまう。
「この辺の銀座・新橋界隈ってえのは粋で洒落た町だからね。こう金もたんまり持ってるエリートで、遊びも上手にやるような、イケメン業界人なんてのがやって来るね」
青山や表参道辺りの人気サロンで、カリスマ美容師に切ってもらったモヒカンヘアー。
キリリと整った太眉に、キレ者そうな鋭い眼光、イニイアチブやコンプライアンス、バズるなんて横文字を使いこなす、語学力に長けた口。
肩からは、高級ブランドのカーディガンを結んで垂らして、ベージュのチノパンにこれまたハイブランドオーダーメイドのピカピカに光った革靴。
「いやね、家は六本木の高層マンションかなんか1フロア借り切って住んでる。風呂なんかそりゃ、週刊誌の巻末に載ってる黄色い財布買って人生が変わった男みたいに、両脇に女抱いて、札束浮かせて余りあるってくらい広い。当然、お江戸の夜景は一望、港区の塔も台東区の塔も俺のもんだぜ、ってバブリーな生活を送ってるんだけどね」
急に、切ない表情に変わる若旦那。
「仕事仕事で気付けばアラフォー。ここんところはひとり寝寂しく随分と人恋しくなっちまって、かと言って女遊びももう飽きた。芸能人との打ち合わせと言う名のコンパも切り上げて、久しぶりに会社の近くの銭湯にでも行ってみようか、なんてことになるわけだ」
ここは、江戸時代、落語世界の日本橋奴湯なんて、そんな設定はそっちのけ。
「仕事終わりだからちょっと男臭い、いつもはゴールドジムで使ってる高そうなシャネルのジャージなんて着ちゃってね、ガラガラガラリと、こう男湯の扉を開けて入ってくるんだねえ」
さあさ、盛り上がってきた妄想劇場。
はじまりはじまり。
「『ども、まだやってるかい?』なんて声を掛けてくるね。ちらりと見て、すぐ食い付いちゃいけねえ。僕は淡々と返すわけだ」
『へえ、25時までは開いてますよ』
『そりゃ良かった、随分と遅くまでやってんだね。
これからもまた寄せてもらおう。
湯屋代はいくらだい?』
『はい、450円申し受けます』
『450円、450円と。じゃあこれで』
「相手は小銭を渡してくるね。イタリア製かどっかの長財布からだ。はいよ、と受け取ろうとして、あっと、相手の手が滑っちまう」
『おっと、こりゃあ失礼した!
思わずしっかと握っちまって』
『いえいえ、こちらこそ。まさか、その位置から股間を握られるとは思いもしませんでしたが。男らしい働き者の手をしていらっしゃる。さぞかし敏腕なエリート業界人とお見受けしますよ』
『いやいや、まだケツの青い若造だ。
それではごめん』
「なんつってね、ちょっとしたラッキーイベントが発生するわけだ。動揺しちゃアいけないよ、あくまで日常茶飯事慣れてます、って顔でいなきゃならねえ。そんな僕を見て、相手はドキッとするね。脱衣場の隅でもって、鼓動の高鳴りを感じている」
『何故だろう。触れ合った瞬間、電撃が走った。今まで味わったことのないトキメキ、この気持ちの名前は、一体……?』
「思い悩むイケメンエリート業界人。口上が入るってえと、この辺でこう言うだろね。『これが、2人の運命的で残酷な、最初の出逢いだった』」
月9かいやさ昼ドラか。
若旦那の筋書きのないドラマは、どんどん広がっていく。
「ここを境に、相手は頻繁にこの奴湯に通うようになるね。 夜遅くにやってきてはきょろきょろと僕を探してね、番台にいないと分かりやすく肩を落としたりする。いたらいたで『どうも』『いらっしゃい』なんて短く言葉を交わすだけ。それでも、相手の心にゃ僕が住み着いちまって、もうもう仕事のロケ先でも上の空。ADのひとりに『恋煩いですか?』なんて言い当てられちまう始末でね。たはぁ~言うに叶わぬ想いってのは切ないねえ~~~」
身振り手振りで、若旦那。
物語は急展開を迎える。
「そんなある日だ。仕事でくたくた、午前2時。西麻布かなんかを、タクシーリムジンでもって通り過ぎている最中に、相手は偶然見つけちまうんだね。僕が、ひとりで夜道を歩いているとこを」
『待ってくれ、止めておくれ』
「キキ――ッと響くブレーキ音。日頃思い焦がれた、番台さんその人が目の前に、ってんで逸る気持ちが収まらねえ。ガチャリと飛び出し、思わずと僕に声を掛けるんだ」
『番台さん!』
『おや、あなたはいつものご贔屓さん』
『お仕事帰りかい?こんな晩にひとりで歩いていちゃあ危なっかしくてしょうがねえ』
『何言ってんですか旦那、若い女子じゃあるめえし。武骨な男だ、襲ってくる者もありゃしませんよ』
『いやいや、俺は、俺にとっては、あんたは可愛いおヒトだから…どうぞ心配をさせないでおくれ。そうだ、ひとつ、このタクシーリムジンでもって送らせちゃくれないかい?その、もしもあんたが、嫌でなければ」
「相手は、ぽおと頬なんか染めちゃってね。困ったような顔で、じいっと僕を見つめて来るんだ。百戦錬磨、女にも苦労したことのない、イケメンエリート業界人のこの俺が。こんな小さな誘い文句にすらドギマギとしてらしくないったらねえ、ってそんな様子でね」
『だけどもこれは、はるか昔、あの寺子屋時代の甘酸っぱい恋に似ている……いやまさか、中年男性相手にこんな感情……』
「ざわめく想いをひた隠しにしながら、相手は僕を車に乗せるね。車窓を流れる見事な夜景も、今日はひとっつも目に入らない。『送り狼なんかしやしないよ』なんて冗談交じりに言うけども、それもクチだけ。六本木のマンションまで着くと、もう我慢できなくなってくる。相手は僕の手を引いて、こう告げるんだ」
『申し訳ねえが、番台さん。
今夜はあんたを、帰したくねえ』
ぺペン、三味線の音一つ。
これが市川團十郎なら男一代見得のキリどころ、ってな具合にキマった若旦那劇場。
異変を嗅ぎ付け、にわかに女湯もざわつきだす。
「ちょいと見ておくれよ、あの番台。自分で自分の腕を引いてるよ。なんだいありゃ」
「『さあ、上がっとくれ。上がっとくれ』って、今度は宙に向かって手招きしてるね」
「あれあれ、自分に言われてるのかと思って、あたしお湯上がってきちゃったよ」
「ねえ、面白そうだから皆で見てようよ」
ってんで、思いがけなく観客も増えて満員御礼。
シチュエーションはシーン3、イケメンエリートと酒を差し交す場面に移る。
「リビングに入ると、相手が右手にワイン、左手にグラス2つ持ってやってくるね。『やあ、そこにお座りよ』なんて。隣同士に座ると軋む革張りのソファ、思わず無言になっちまう気まずい空気」
『ひとまず、一献やらないかい?別に良い品じゃねえ、ブルゴーニュ産のしがないロマネコンティなんだが。番台さんがいりゃあ、上質な味わいに変わるってなもんだ』
「コポコポコポと小気味良い音を立てて、そのロマネなんちゃらが注がれる。杯が満たされるてえと、相手は言うんだね。僕の耳元にそっと近付いて」
『番台さんとの素敵な晩に』
チンとグラスが鳴ったのか、鳴らなかったのか。見えぬ誰かと乾杯をした若旦那に合わせて、女湯連中も牛乳瓶をカチ合わせる。
「最初は緊張してろくに話せなかったのが、イタリア出張で買った旨いツマミかなんか出されるとすっかり酒が進んじゃって、相手も好い気分になっちまうね。でも僕は、そう簡単に溺れちゃいけねえよ。頂けるなら頂く、頂かないのは頂かない。そもそもガバガバと飲んで酔ってちゃ、ただの飲ん兵衛とバレてムードもへったくれもねえしな。ちびちび飲んで目元が朱に染まるくらいが一等色っぽいってもんだ。頬を抑えて、恥ずかしそうに言ってやるんだね」
『ヤダね。こっちを見ないで下せえ。
僕ぁすっかり、旦那に酔っちまったみたい』
見えぬワインでほろ酔い加減、嫌々と首を振る若旦那に合わせて、女湯連中も嫌々と身を震わす。
「するってえと、相手は『本当に可愛いヒトだ』とかなんとか言いながら、自分のグラスを差し出すね」
『こちらもを飲んでみないかい?
とってときのを開けたんだ。
あんたの生まれ年のシャンペンを』
『旦那、僕の誕生日をご存じで?』
『ああ、あんたのことならば。
メディアの職権乱用でいくらでも。
ささ、一口』
「なんて言いながら、クイッと飲ませてくる。舌に広がる爽やかな香り、ぱちぱちと跳ねる炭酸はまるで僕たちの恋のような清涼感じゃねえか。すると、相手はいたずらに笑って、ドキッとするようなことを言ってくるね」
『あれ、番台さん、今のグラス。俺は飲み口を拭かなかったんだ。あんた、それを承知で飲んだのかい?』
「獣みてえなギラギラした目付きで、僕を見つめるその雄々しさったら!!
間接キスってやつさ、これにゃあ僕もズキュウウンンとすっかり参っちまってね。もう乾杯(完敗)ってな具合に白旗上げちまって、あとはそのまま夜空にフェードアウト。静寂に鳴るのは、小さな衣ずれと犬の遠吠えだけってなもんだね。ア、アオ――ン!!!!」
「なんだいなんだい。何か今アオ―――ンって聞こえたけど。野犬でもお湯に入り込んだの?」
突然響いた番台の奇声に、お湯上がりの他の連中もまた騒ぎ始める。
「シイッ、今いいところなんだから。ちょいと黙って聞いてておくれよ」
ってんで、女湯限らず、客の熱狂に寄せられて、湯屋の外からまで覗きに来ちまったりして。押せや押せやと、さながら見世物小屋の賑わい。
それもかまわず若旦那、もとい恋する番台さんとイケメンエリート業界人の艶物大芝居は留まる気配なし。
「そして翌日、迎えるは衣衣の別れだよ。『お江戸中の烏を殺してあんたと添い寝がしてみたい』なんつってね」
『昨晩は、その、よく眠れたかい?』
『へえ、お陰さんでぐっすりと』
『嘘をお言いよ、番台さん。腕の中で何度も寝返りを打っていたじゃあないか。初めてだったのかい?』
『ええ、でも旦那だったから。
旦那とだったから』
「なんつって、そっとマンションの前で抱き合うわけだね。離れたくない、けども離れなけりゃならねえ。夢のような一夜が過ぎても、所詮僕とあの人は番台とお客、身分違いの恋。朝が明ければ、かたや奴湯へ、かたや汐留でのスタジオ収録へ向かわなきゃあならねえ」
その時。
若旦那の話に合わせたように、表でもって突然、ざああざああと雨が降ってきた。
「おお、おお、良いねえ。別れを惜しむ2人の間に、こりゃ仏さんの情けか、通り雨がやってくる」
『酷い雨ですね、旦那』
『ああ、そうだね番台さん。
どうだろう、今少し、お側に行っても良いだろか』
「なんつってね。より一層寄り添い合っちまって。昨晩の熱い吐息を思い出して、今更ながら照れちまって黙り込んじゃったりなんかしてねえ、もぉ~~弱ったねえ~~!」
ペシリと額を叩く若旦那。
「おいおい、今度は弱ってやがるよ。忙しい人だねえ、どうも」
「こうなってくると雨だけじゃつまらねえ。もっとこうコロコロ~と雷のひとつも鳴りゃあより一層距離が縮まるってなもんだね」
コロコロ、コロコロコロ。
「子どもの雷さね、遠雷ってやつだ。日光の山奥から小さいのが聞こえてくる。コロコロ~コロコロ~、コロ、コロコロコロコロ~」
「何だかまた今度はコロコロ言ってるよ、あの人は」
「そのうち、雨も強くなってきてね。雷もコロコロなんてもんじゃ済まねえ、どんどん大きくなってくる。ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロ~!!」
「今度はゴロゴロ言い始めたよ。番台の上でもって、あんなに体ぁ動かして」
恋人たちに襲い掛かる超展開。
若旦那の演技にも熱が入る。
「いやさ、ゴロゴロ唸ってるうちはまだマシだね、カリカリカリ!!!なんて音し始めちまった日にゃ、もう恐ろしいったらありゃしない!!」
『番台さん、俺が付いてるよ』
『ああ、旦那。離れないでくれ』
「なんつって言いながらも、雷様は恋し合う2人を引き裂くようにやってくる。じわりじわりと近付いてきて、真っ暗な空がピカッと光ったと思ったら、たちどころに落ちるんだな。そう、ちょうどこんな具合に大きな音で、カリカリ、カリカリ、カリカリカリカリッッ!!!!」
ドタ――――ン!!!
「おいおいおいおい。
落っこっちゃったよあの人」
妄想に没頭するあまり、若旦那、番台の上から真っ逆さま。ううーーんと一声、そのまま、床でもって伸びちまった。
「ちょっとあんた!何やってんだい!!」
見かねたお客がやってきて、わわっと旦那に群がって来る。見れば、打ち所が悪かったのか、ピクリピクリと体が戦慄いている。
「痺れてるじゃあないか、大丈夫かい?」
「ああ、これなら大丈夫。
恋に痺れてるだけだから」
湯屋番のお噺でございました。
幕