無償の愛とは
僕の中で
とゆうより
多くの小説家や詩人
アーティストたちに
シェイクスピアなど
昔の文豪たちから今に至るまでの芸術家もそうだけど
みんなが探し続けている
「無償の愛」
というテーマについて
Netflix「ペーパー・ハウス part5」を観ていて
いつも通り、ふと直近的に気づいた感覚を
手短に書いておこうと思う。
段階をおいて、順番に。
そして今から書く言葉はすべて
いつも通り僕なりの表現として。
エゴというものは
常に自分を守り満たす為に
周囲へ向けられる身勝手なものである。
恋というものは
相手を自分のものにしたい。
そしてどこか身勝手になってしまう
しかしその出逢いは自分を磨き上げてくれる
エゴから少し成長した自分へと変化させてくれる
人との交流と幸せがあるものである。
愛とは
相手を尊重し相手の幸せを願うこと。
そして相手の幸せを自分の幸せと想えること。
ただここにもほんの少しだけ
"自分が裏切られなければ" であったり
"自分のルールは自分のルールで守ってもらいつつ"
といったエゴとはまた異なるが
いわゆる「愛を守るための原則や約束」
の様なものが存在すると思う。
だから結婚のあとに離婚とゆうものが存在する。
しかし
無償の愛
言い換えるとこれは
もしかすると
真実の愛
とゆうものになるのかもしれないけど。
ここまでの想いに触れる事というのは
我が子に対して親が持つそれであり
もしそれが全く違うところで生まれ育った
自分自身でも、自分の親でもない
他の誰かとの間
に感じることが出来たら
これはきっと奇跡とゆう言葉すらも
飛び越えてしまうような
そんな最早
不思議としか言い様がない事ではないか。
そんな風に感じた。
無償の愛
無償の愛とは
見返りを求めないだけではなく
例え相手が自分に何か嘘をついてしまったり
何か大きな失敗をしてしまったり
自分本来の価値観やルールであれば
それは決して考えられないような出来事に
相手を通じてもしも晒されてしまったとしても
それを受容れることが出来ること。
許すとゆう言葉すらもいらない。
ただ相手のそのままと
相手との間に起こることそのままを
自然にすべて受け容れられること。
親は死んでも親であるのと同じように
いつまでも変わらずその人のすべてを受容れられる。
また、受容れられているなと感じたら
そこにあるのはもう
無償の愛であり、真実の愛じゃないかと。
そんなことを思った。
そして僕の中にはそれがあり
僕はそれを知っていると。
だからこうして今書けているんだな、と。
これは友人であっても
もちろん恋人やパートナーであってもそう。
その人のそのままと交流出来るとゆうのは
本当に美しいなと感じた。
そしてこの無償の愛とゆうものは
きっと昔の日本には
寛容さ、とゆう言葉として
存在していた気がする。
うん。
本当に。
いつかこんな事を映画で描きたいな。
おしまい
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