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パウロ・コエーリョにはまっている、が、言葉にできないもどかしさ

こんにちは、きゃはりんです。米国大3年生です。

アルケミスト、星の巡礼(読みかけ)とたった2冊目にして、パウロ・コエーリョの作品にどはまりしました。

でも、なんでパウロ・コエーリョの作品が好きなの?と聞かれたらさっと言葉にできない気がして、

このもどかしさを解消すべく、とりあえず思っていることを書き出してみることにしました。

言語化しないと気が済まないタチなので…笑

まず、彼の作品を読むと、旅に出たくなります。しかも、観光名所をギチギチのスケジュールで回るものではなく、ひたすら歩いて、町の小さなレストランで食事をして、同行者と夜遅くまで語り合う、的な。

効率とか、無駄とかをあまり考えずに、むしろ過程を楽しむことの意味をリマインドされている気がします。

と言っても、ただぶらぶらすれば良い、という訳ではなく、自己の探究や、自己研鑽を常に心に留めておく、厳しい旅であるように感じます。

ここから全然言語化できないもどかしいゾーンになりますが、

何かとてつもなく大きなパワーや目標に引っ張られて、それを見失っていない限り、どんな回り道をしてもいいし、奇想天外なことにたくさんぶつかったら良い。

ひとつひとつの経験にはきっと意味があるから、と背中を押してくれている。

しかしそれは同時に、人生の目的、とか、自分の芯みたいなものを持っていないことを、非難されているようにも感じる、のです。

例えば、「星の巡礼」では、主人公が剣を求めて旅をするのですが、

旅の案内役に、「君は剣を手にしたいと考えているが、その後その剣で何をしたいか、というイメージがない」と指摘されます。

この言葉、結構ギクッと来るというか、

目先の目標があったとして、その先に大きなビジョンが無い(または非常にぼやっとしている)ことって、よくあるなあ、と。

まとめると、パウロ・コエーリョの作品の大きなテーマとして、大きなビジョンに導かれた旅、というものがあると思います。

それは、効率とか無駄とかいった概念を取り払った旅に出る勇気をくれると同時に、人生のビジョンを考えることから逃げていることへの非難にも感じられるのです。

彼の作品で、もう一つ大きなテーマとして挙げられると思うのは、やりたいこと(夢)はすぐにやれ、というメッセージです。

「アルケミスト」では、

ほとんどの人間は、やりたいことがあったとして、それがすぐに実現可能であると信じていない、というより、その事実を無視し続けている、

という趣旨の発言が繰り返されます。

さらに、

ほとんどの人間は、本当にやりたいことが子どもの頃には分かっていたのに、それを無視し続けることで忘れてしまっている、

とも言っています。

直観的にやりたいと思ったことは、もしかしたら人生という旅をガイドする大きなビジョンに結びついているかもしれないのに、

これまでの積み重ねが無駄になるから、とか色々と理由をつけて、なかなか手を出さないでいる。

そうしているうちに、やっぱりやらなくてもいいか、その方が安定だし、と思ってやらない。

内心では「こっちをやりたい」と決まっているのに、周りの目や損得勘定からそうではない方を選択してしまったこと、何回もあったなあ、と毎回思わされます。

だから後悔をめちゃくちゃしている、というわけではないけれど。

大学3年になってようやく分かってきたのは、人生って意外と自由演技なのかもな、ということです。

(社会に出て働いたこともないのに、主語を大きくした書き方はしたくないけれども…)

特に高校までは、毎日決められた時間に学校に行って、決められたことをやって、宿題をして。習い事にいっても、やるべきことは決まっていて、大体の正解も用意されている。

大学入試とかその最たるもので、共テと2次試験それぞれ対策をして、良いパフォーマンスをすると報われる。

けれど、大学に入って、高校までと比べて「決められたスケジュール」の時間が明らかに減って、

空いている時間は、研究でも、サークルでも、バイトでも、勉強でも、みたいな状況になり、

それぞれの配分も自分で決めて良し、ただし自己責任で。

クラスメイトという概念もなくなって、どんな人付き合いをしても良し、4か月間の夏休みをどんなふうに使っても良し、どこに住んでも良し…

ってなると、自分で決められること、同時に、決めなきゃいけないこと多いなー、と圧倒され続けています。

かろうじて、「大学で良い成績をとる」という目標は立てられるとして、でも、それだけ。

もっと大きく、どんな人間として生きたいか、というビジョンがちょっとでも見えてこないと、

夏休み何をして過ごすか、就活するのか院進むのか、自由時間をどう使うのか、考えるのがすっごく大変だし、

行き当たりばったりの決断を繰り返して、「こんなんで良かったんだっけ…」と自分を疑い始めたり。

ここで、パウロ・コエーリョ作品のメッセージは、勇気をくれるように思うのです。

彼の作品を読むと、いったん落ち着いて、大きなビジョンを考える時間を取りたくなる。

結論なんて出ないけれど、「フリーランスになって時間的に柔軟な働き方をしていたい」、「公衆衛生関連の仕事してみたい」とか、「とにかく長生きする」とか、断片的な目標は浮かんできて、

自分ってこんなことしたいと思ってるんだな~、と、ただただ知れるだけでも、ちょっと前進した気がする。

そして、考えたことを何となく頭の片隅にとめて生活していると、それに関連した機会により出会えるような気がしてきて、

出会ったときに、やってみたい、と思ったなら、すぐやってみる、を最近できるようになってきた気がする。

だから、この夏インドに行くことになったのだけれど。

正直、ぜんっぜん知らない環境で10週間インターンをするのはめちゃくちゃ不安だし緊張するけれど、

ビジョンのある旅にしてしまえば大丈夫、そうパウロ・コエーリョが言っている気がする。

私のビジョンは(これがまだちゃんと言語化できていないから不安なのだけれど)、心からのコミュニケーションをすること。

大学進学でアメリカに来てから、言語の壁を意識しすぎて、コミュニケーションに対して臆病になっている気がする。それが、自分に対する評価の低下に、ものすごく結びついている気がする。

それは、ちょっとプライドのせいもあるのかな、と。日本では簡単にできていたことが、英語だとできない。だからこの場はおとなしくしてよう、変な人だと思われたくないし。

そのせいで、ずっと自分を抑制してしまった気もする。アメリカでの私は、自分の立ち位置を見失ったかのように、シャイで内気だ。

だから、インド、という全く知らない環境では、もう赤ちゃんになったつもりで、分からないことは正直に「分からない」と言い、何度も聞き直して、

インタビュアーになったかのように、とにかくいろんな人を知るために質問しまくって、運が良ければ仲良くなって。

インドでこれから出会うであろう人々は、誰一人として私のことをまだ知らないし、どんなに変な関係になったとしても10週間で私が物理的にインドからいなくなるから。

多分、インドでの10週間を、自分の抑圧されている性格を変えるチャンスだと思っているんだろうな。

性格なんて簡単には変わらない、無理しても変に疲れるだけ、とメタな自分が言っているけれど、

いつもと違う自分になるために、インドに行く。

今書いたことを頭の片隅に置いて、数日後にインドに飛び立とうと思う。

パウロ・コエーリョになんではまっているのか、という話から、結構脱線したなあ。。。

さて、「星の巡礼」の続きを読みに戻るとするか!!

















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