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「文化の違い」は人によるものであり、土地によるものではない

こんにちは、きゃはりんです。米国大3年と4年の間です。

この夏(2024年夏)、南インドの町で10週間インターンをしている中で、改めて「文化の違い」について考えたことがあるので、書き留めておきたいと思います。

高校卒業後、アメリカの大学に進学した者として、いろんな人から、「文化の違いとか、大変じゃなかった?」とよく質問されます。

いつも便宜上、「まあ食べ物とか全然違うし、最初の頃は大変だったかな~」と答えているのですが、

こう発言するとき、いつも嘘をついているようでならないのです。

どうして、嘘をついているような感覚になるのか。

一言でいうと、「アメリカという土地による『文化の違い』をほとんど感じていないから」です。

なんなら、共通点ばっかりです。たいていの人は一日3食摂るし、お金でモノが買えるし、教授には丁寧に話す。

もちろん、全体的に大きな声で話す傾向がある、とか、パーティーの頻度が全体的に高め、という違いは感じますが、あくまで「全体として」の話。声の大きさの分布が、全体的に大きめの方にシフトしただけで、めちゃくちゃ話し声が小さい人だって、いくらでもいます。

カリフォルニア出身でも根暗な友達はいるし、逆にカリブ海の国出身なのに時間をきっちり守る人だっています。

たまたまその土地に生まれて、その親に育てられ、たまたまこんな友人と付き合って、たまたまこの大学で学んでいる・ここで働いている。

出身・土地とか関係なく、いろんなたまたまが積み重なった結果、「この人」はこんな文化を持ち合わせている。こう考えるほうが、合理的な気がします。

だから、アメリカという「土地」ベースでの文化の違いは、私には語れないと思うのです。

実際、アメリカでの人間関係で一番影響の大きい「文化の違い」は、1)朝型か夜型か、と、2)時間をどれくらいきっちり守るか、です。

これらの「文化の違い」は、日本を出なくたって経験できること。

高校生の私は「多文化を経験する!」と意気込んでいましたが、今の私は、普段の生活で、さまざまな人々と真剣に向き合う・付き合うことこそが、「文化の違い」を体験する方法だと思っています。

海外に出ると、日本にいるときと比べてほんのちょっとだけ、「違う文化」を持っている人に出会う確率が上がるだけ。

「違う文化」を持ち合わせている人と関係を続けていくのは、大変なことです。ストレスがかかる。

けれども、このストレスがかかっている最中こそ、自分についてもっとよく知る機会だと思っています。

なぜなら、イライラしているということは、自分の中にある「正しさ」に、目の前の相手が従っていない、ということだから。相手の行動の真逆が、自分の固定観念なのです。

自分が持っている固定観念の存在に気づいたとき、初めて、この固定観念を持ち続けるか、手放すかの選択ができるように思います。

毎日、ストレスにさらされ、固定観念を見つめなおさせられる中で、自分が大切にしている「正しさ」とは何なのか、分かっていく。そして、どんどん自分についての理解が深まっていると思います。

「違う文化」を持ち合わせている人々に出会うということは、この世界には多数の文化が存在しているということ。

自分についての理解が深まると、自分にとって心地の良い文化が存在する環境を、見つけやすくなると思います。

このコミュニティに上手く属せなかったら、違う文化をもった別のコミュニティーを探せばよい。

まとめると、いわゆる「異文化体験」は、普段の生活の中でできる、と私は信じています。なぜなら、文化は「土地」ではなく「人」によるものだから。

そうすると、二つの効果があります。

一つ目は、自分の中の「正しさ」を再構築できること。どの固定観念を保持し、捨てるか、選択できます。

二つ目は、固定観念を再構築する中で、自分への理解が深まり、自分にとって心地のよいコミュニティーを見つけやすくなる。というか、見つけるぞ、という勇気と気合が出てくる気がします。

以上が、今の私が「文化の違い」について思うことです。

数年後、数か月後に、全然違う意見を持ってたら、面白いな。自分が違う「文化」を獲得したということだから。





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