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【読書感想】 「泥流地帯」「続 泥流地帯」三浦綾子


節子と耕作

節子は実の母を亡くしている。父親の深城鎌治は高利貸しと女郎屋の経営をしており、その娘であるということでしばしば「性悪」のレッテルを貼られてきた。一方の耕作も貧しい農家の家庭に生まれ、幼少に父親を亡くし母親も遠くに居るという両親が傍にいない環境で育った。幼少の頃に鎌治が耕作の母親を「後家(ごけ)」と指摘したことを耕作が「白首(ごけ)」と中傷されたと勘違いして怒り狂い、石を投げたところ節子の額に当ててしまったことから2人の関係は始まる。節子は多くの大人が父鎌治に対しておべっかを使い取り入ろうとするなかで、真正面から毅然と立ち向かった耕作に好意を持つ。耕作ははじめ、意地の悪い鎌治の娘であることや身分違いであること、自身とは異なり裕福で幸せに見える節子に対して隔たりを感じていた。しかし、節子が耕作が中学進学を諦めたことに対して涙したことを知って節子の本当の思いに触れ、以来2人の距離は近づいていく。

今、耕作は、自分とこの節子の不幸の質が違っていることに気づいたのだ。

不幸の質

多くの人がそれぞれに質の異なる不幸を持っているのだと私は思う。ここでいう「質」は決して不幸の大小を指しているのではなくて、「性質」という意味だと私は受けとめた。

不幸の性質という意味では、大きく2種類に大別されるように思う。「自らが招いた不幸」と「否応なく訪れた不幸」である。節子と耕作の不幸はどちらも後者の性質を帯びたものである。この物語においては一貫して後者の不幸にスポットライトを当てている。

例えば「両親が医者であるために医者になれというプレッシャーで心を病んでしまった人」や「生まれつきの持病と金銭的な問題ゆえに成績は良いのに留学を諦めなければならなくなった人」がいる。2者の不幸の質は全く異なる。前者は進路を自由に決められる後者を羨ましく思うかもしれないし、逆に後者は五体満足で金銭的に豊かな前者を羨ましく思うかもしれない。実際に私の知人Sさんは生まれつきの持病の悪化ゆえに留学を諦めることになった。Sさんは「なぜ努力して留学に行けるほどの良い成績をキープしたにも関わらず、留学を諦めなければならないんだ。あなたはもちろん、皆旅行行ったりバイトしたり留学しててズルい。」と吐露していた。それに対して返答に窮してしまったのを今でも鮮明に覚えている。このことは時折思い出し、どのような言葉をかけるべきだったのかと考えてきた。

質の異なる不幸を持つ人々が心を通わせることは大変難しいと思う。


因果応報という幻想

では、どうして節子と耕作は互いに心を通わせることが出来たのだろうか。それはそれぞれが、相手の経験した不幸に心から寄り添ったからに違いない。

「それはねえ、人間の願望に過ぎないんだよ。理想に過ぎないんだよ。悪い奴はじぴてほしい。いい人間は栄えてほしい。そういつもねがっているうちに、悪いことがあれば、何の罰だとか、いいことがあれば精進がよかったとか、そう勝手に思うようになってしまったんだよ、きっと」

ヨブ記に触れ、耕作は善因善果・悪因悪果、即ち因果応報というものは人間の望みが生み出した理想に過ぎないという考えに至る。「人の不幸は蜜の味」という言葉がある。ドイツ語でも同様の意味で「Schadenfreude(シャーデンフロイデ)」という言葉がある。人にはどうやら他人の不幸を喜んでしまう性質があるようだ。私もそうした性質を有していることは間違いない。先ほど述べた通り、この物語に登場する不幸はすべからく「否応なく訪れた」ものである。この物語に登場する少なくない大人が「自らが招いた不幸」と「否応なく訪れた不幸」とを混同して、耕作たちの不幸を因果応報だと嘲る。しかし、耕作が言うように因果応報という考え方は、節子や耕作の経験した不幸には根本的に当てはまることがないのである。自身に降りかかった「因果のない不幸」を真正面から受け止めた2人だからこそ、相手の不幸にも因果を無理やり見出して因果応報であると片付けてしまうのではなく、心から寄り添うことが出来たのだと思った。


不幸の受け止め方

それでは、否応なく訪れる不幸をどのように受け止めればいいのだろうか。

「修平さん、わたしには上手に説明できませんけどね。今、拓一が言ったように、人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に会った時に、それを災難と思って歎くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」

因果応報の幻に縋らないということは現実を直視せねばならないということであり、それは「善い行いも報われないことがある」「悪人に罰が当たるとは限らない」というある種の絶望を伴うものであるが、真に不幸から立ち上るには避けては通れないということであろう。高校時代の恩師の言葉である「シラケつつノル」にどこか通ずるものを感じるが、不幸を試練だとして真正面から受け止めて糧にしつつ、前を向いて生きていくことに価値があるのだと思う。

この本は、度重なる不幸に見舞われながらも強くたくましく生きる若者たちが生き生きと描かれていた。そんな彼らの姿に私は不幸・災難に対する姿勢と、それぞれが異なる質の痛みを持った他者との向き合い方の、私なりの答えを見つけることが出来た。次に書くことはありきたりに思えるかもしれないし、具体性を欠いているように思えるかもしれないが、他者への寄り添い方は1人1人異なると感じたからこそ抽象的になっている。それは決して不幸を時代や環境のせいにしてしまうのではなく、そこにこれからの人生に活かすことのできるエッセンスを少しでも多く見出すこと、そして他者の漏らす苦しみにじっと耳を傾けて忍耐強く寄り添うことである。


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