事業報告書05 / 「冬季うつ」の温度
身体が寒さを感知するたびに、心がどんぼりとする。いわゆる「冬季うつ」だ。厳密には冬季というより、気温が上がる季節から下がる季節へと移行したのを感じ取ると、それに呼応して心が萎れていく。自分のそれは生活に重大な支障が出るようなものではないが、それでも風呂が遠くなったり入眠まで2〜3時間かかったりするようになる。
少なくとも自分の観測範囲(インターネット)において、「冬季うつ」という言葉が積極的に用いられるようになったのは、ここ2〜3年の間であったように思われる(季節性情動障害という呼称で医学的にも認められた症状ではあるらしい)。ただ、振り返ってみれば、それまでの自分の人生にも同種の経験はあった。人生のトラウマ的体験が起きた箇所に付箋を貼っていったら、おそらく10〜11月にかけて夥しいほどのポストイットが並ぶことになるだろう。
私はこの時期の心の不調について、なんと呼ぶべきであったか、たびたび忘れてしまう。そして何かの折に「冬季うつ」という言葉を目にして、自分の状態を把握する。《自分は今、冬季うつの状態なんだ》と。そしてその度に、胸の空くような、何やら救われたような気分になるのだ。
言葉には、言葉が生じてから自分が感知するまでの時間が内包されている。あるいは、その言葉が生じたコンテクストを丹念に辿れば、一人間の生涯では賄えないほどの歴史と出会うことになる。「冬季うつ」という言葉は、季節の変わり目にメンタルの問題が発生するという現象に一般性があり、それが共感を呼び込んだことによって浸透したものだ。つまり、私自身が精神の不調を「冬季うつ」という(比較的)新しい概念によって解釈した時、私はその語が内包している数多の歴史たちとも出会うことになる。だから私は、決してポジティブな造語ではないものの、「冬季うつ」という言葉と出会うたびに人肌の温もりを感じる。ただ言葉を目にしただけなのに《それって私だけじゃないんだ》と、孤独感からつかのまに解放されるのだ。
言葉の効能は、孤独な存在に「歴史」という線を引き、その中で自らを捉え直させることによって孤独を払拭させることだと常々感じている。それは決して良い側面ばかりではなく、思考の矮小化として言葉が作用してしまう局面も多分にあるだろう。ライブを観終わった後に《凄すぎて言葉にしたくない》という感想を抱くのは、言葉による矮小化への防衛反応であるように思われる。それだけ言葉が有しているコンテクストは膨大で、簡単には這い出ることのできない大河のように、決して優しい顔をしてなどいない。ただ、そのような大河が、言葉の歴史性による孤独からの解放を望む者には、仏頂面ではあるが居心地がいいのだ。その冷え冷えとした文字面とは裏腹に、「冬季うつ」という言葉は温かい。