「村社会」に対するネガティブという虚像
「村(ムラ)社会」という言葉について。現代においては、ある村落における人間関係そのものを指し示すというよりも、何かしらのネガティブな意味が込められたうえで用いられることのほうが遥かに多い言葉です。
ピクシブ百科事典にはなんと「村社会」という単独項目が存在しており、そこでは村社会の特徴は下記のように記されます。
内容の是非は確かめようもないくらい主観的で根拠のないものですが、少なくともこの記事を書いた方にとって「村社会」というものはあまり良いイメージではないのだろうということはよく分かります。
私自身も、「村社会」という言葉に対してあまり良いイメージは持っていません。どこか閉鎖的で窮屈な印象を抱きます。報道等で見聞きするものからそうしたイメージが作り上げられているのかもしれませんが、私が一時期属していた共同体の閉鎖性に「村社会」を感じ取ったこともあります。
しかしながら、こうした概念が一般化できるかというと、それはかなり困難なようにも思います。少し考えればわかることですが、「村社会」の「村」というのはそれこそ日本中いたるところに点在していて、「村」の在り方というのは極めて多様性に満ち溢れているからです。
私のイメージする「村社会」と、ピクシブ百科事典における「村社会」のイメージはおそらく全く別のものを見て作り上げられているもので、それが「村」という言葉で象徴的に束ねられることには若干の不安があります。本来であれば「閉鎖的」とか「封建的」とかそういった言葉で束ねられるべきだと思いますが、それにしてはこの「村」という言葉は手っ取り早いものなのでしょう。
結局のところ、「プライベート」という言葉と同様、これもまた、私たちの脳内にある「なんか嫌なもの」を他者へ説明するためだけに生み出された虚構的な言葉なのかもしれません。
厄介なのは、この言葉の使われ方が、概念的な否定のみならず、実在する「村」に対しても否定的なイメージを生み出してしまいかねないというところです。私の感じる「村社会」と他者の感じる「村社会」とはおそらく全く異なる事象を見て作り上げられたものなのに、それが共通のものとして語られ、場合によっては普遍化…全く関係ないところにさえ「村社会」というネガティブなイメージが当てはめられていく可能性があるわけです。
例えば、私の見た村社会Aと、誰かが見た村社会Bがあるとします。これらはいずれも「閉鎖的」「封建的」という意味で語られるものですが、なぜその村社会が「閉鎖的」「封建的」であるかというと、それぞれ全く別の事情によるものだったりします。
ところが、この村社会Aと村社会Bに共通する、人口が数千人程度であるとか、田園地帯であるとか、町内会が活発に機能しているとか、そういった記号に着目した瞬間に、我々は「村社会」の「閉鎖的」「封建的」な空気感とは「人口が数千人程度で、田園地帯で、町内会が活発に機能している」ということを理由に醸成されるものだと考えてしまいます。実際にはそうではありません。
挙句の果てに、そうした特徴を持つ村Cに対しても、「この地域は閉鎖的、かつ封建的である」という当てはめをしてしまいます。実際にその村Cを、私も誰かも見たことも聞いたこともないにも関わらず、です。
こうした「村社会」をめぐる空気一つとってもそうですが、そこに暮らす人やそこの歴史を捉えようとせず、パターン的に印象付けられていってしまうことを私は心配しています。
もちろん、そうすることによって人間は極めて効率的に物事を考えられるようになっている部分もあるのでしょう。しかしながら、会ったこともない人から「お前の住む村は閉鎖的だ。なぜなら他の村と同じ特徴があるからだ」と突然決めつけられるようなことがあるというのは、あまりいいことではないような気がします。少なくともそこにコミュニケーションは発生していないわけです。
つくづく、インターネットに代表されるような情報ツールの発展に驚かされます。私たちが作り上げてきたある種の歴史は、どんどん塗り替えられていきます。果たしてこれでいいのだろうか。私たちは、手間を省くことと引き換えに何か大事なものを失ってはいないだろうか。そんな気がしています。
参考にしたもの
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/87/4/87_495/_pdf/-char/ja