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リビング・イン・ニア・トーキョー #16
休日の晴れ空!久しぶりだ。
ずーっと洗おうと思っていたものを洗い、さっと干した。ちょっと換気もする。
買い物に行って、しばらく空っぽだった冷蔵庫の中身を埋めてくれそうなものをカゴに入れていく。納豆、キャベツ、もやし、ソフトバター、食パン、豚肉、、、
あとは、オードリーのラジオの過去回を延々と聞く、、、気がつくと、すっかり夜になっていた。
うーん、外に出ようという気が起きてこない。ぜんぜん、それはそれで構わないんだけど、内的要因にそうなっているというよりは、外的要因でそんな感じになっている。抑圧されている感覚がなんとなくある。望んでやっているわけでもない。もちろん、例のウイルスのせいだ。行けるなら、行きたいのである。でも、でも。
ここ3週間の「リビング・イン・ニア・トーキョー」を見返す。3週間前に行っていた東京駅は、いまはちょっと行きづらくなってしまった。「数が増えてても、場所は限られてるよね」とか、「対策ちゃんとしてれば大丈夫だよね」とか、そういう話もあるけど、そういう問題ではなくて、「仮に自分が感染したときに、いまの報道状況あるいは集団心理が、周りにどんな迷惑をかけるか」という軸で物事を考えてみると、やはりいまはどこかに出かけるというのはあまり賢い話ではない気がする。誰より何より、自分の親から送られてきた「連休の帰省は諦めてください」というメッセージが、その賢明さを表していた。
自分が公務員とか大企業の社員とか、比較的安定したところで働いているならまだしも、もうそういう、ちょっと前の自分ではない。なにかあったときにダメージを受けるのは、顔も名前も知らないのに仲間ということになっているどこかの役人でもなければ、こちらの仕事のことなんて何も知らずに偉そうにふんぞり返っているどこかのおじさんでもない。自分の生活だ。何より自分のために、ぼくは今日の外出を諦めている。
そんな状況だけれど、人は休日の外出は諦めるくせに、平日の電車には乗るし、職場にも行く。ちょっと前にがんばっていたリモートワークを「何のメリットもない」とあっという間に捨て去った会社は果たしてどれくらいあるのだろうか。
火曜日の朝、病院に行くために乗り換えに使った日暮里駅のホームはひどいことになっていた。あの状態が野放しになるのなら、そりゃ感染者も増える(むしろあれで200人程度に落ち着いているというのが信じられない。そんなものなのかもしれない)。
とはいえ、大事なことはそこじゃない。皆、「どこまで分かったうえで」その行動を取っているのだろう。問題はそこだ。
ひょっとして、あの日暮里駅にいた人たちのうちの半分も、例のウイルスがどんなものなのかということを知らないんじゃないだろうか。なかには、もはや考えることすら放棄している人もいるんじゃないだろうか。そんな疑念が消えない。
彼らは、いざ自分がかかったときに、どんな台詞を吐くのだろうか。まさか、「対策をちゃんとしない国のせいだ」とか、「自分がかかるとは思わなかった」みたいな、無責任なことを言ってしまったりはしないだろうか。
自分でそれを知ろうもしないのに、いざことが起こるとその事態の責任を誰かに転嫁してしまう。何事も解決はされない。受験を目前に控えた中学生たちがよく指導される、「自分ごとで考えろ」というやつを、果たして皆、できているのだろうか。
これが杞憂であるのならそれがいちばんだ。誰もが「かかるかもしれないこと」を覚悟したうえで行動できているのなら、それでいいのだと思う。かかってしまったときに、「怠った自分が悪い」と心から言えるのならば、それでもいいのだと思う。
自分の人生は自分が握っていると、皆が思えているのなら。
でも、とてもじゃないけど、そんな風には思えない。
もしかすると、責任を転嫁するでもなく、「しかたがないんだ」と諦めてしまっているかもしれない。生まれ落ちたこと、「自分」を得ることのできたという幸運を、投げ出してしまっているんじゃないだろうか。
幸運。そんな幸運を、果たしてどれほどの人が、自覚できているというのだろうか?
果たしてどれほどの人が、道端で本能のままに交尾を重ねる動物たちとさして変わりのない自分自身を自覚しながらも、それでも「かけがえのない自分」として生きることを選ぶことができているのだろうか?
養老天命反転地に行ったときのことを思い出した。
全体を歩き回って、一番上から全体を眺めたときに感じた、自らの感覚。「自分とは」を感じたあの瞬間。あのとき、なんとなくぼくは、「自分とは何か」の答えを得た気がした。誰かとか、何かとか、よく分からないそれ以外のものに縛られていた自分自身を自分の手に取り戻した気がした。
あのときのような感覚を、あの日の日暮里駅のホームにいた人たちの中の、どれくらいが得ているのだろうか。どれくらいが感じているのだろうか。人に説明することなど決してできない、自分だけの世界。自分だけの運命。
それがなければ、社会など砂上の楼閣でしかありえない。
かのボリス・ジョンソンがいうところの「社会というものがまさに存在する(there really is such a thing as society)」という言葉の真の重みは、個人が個人を「個人」として認識したときに、はじめて感じられる。(個人主義的だったボリスが発したからこそ、この言葉に意味がある)
個人という主格の自覚ができないままに出来上がった「社会」とは、なんと滑稽なものなのだろうか。そして、本来その自覚をするために歴史というものがあるはずなのに、それがないがしろにされているように感じられてならない。
生きることとは、とてつもなく重いはずなのに、それが軽んじられている。
それがまさに、今の日本の、火曜朝の日暮里駅の人でごった返すホームを生み出しているのではないだろうか。
そんなことを思う。
ぼくはぼくだ。
そう思って、いつも言葉を発信する。
でも、伝わるようで伝わらないのだろう。
この言葉足らずを、どう解決すべきかを考えながら、風呂に湯を張る。
明日の仕事もある。8月からの新規事業に向け、やることがある。
やることがある限りは、それもまた、「ぼくはぼく」である。
でも、もっとやれることがあるはずだ。
どうすればいいんだろう。考えながら、風呂に湯を張る。
そして、ぼくはこれでいい。
でも、あなたはどうなのだろう。
(2659字)
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