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愛すべき出会った人たち 2

彼女は、いわゆる「担当」する随分前からその存在を知っていた。
というのは、彼女を担当するヘルパーから相談を何度も受けていたからでした。熱心なヘルパーさんだった。
例えば相談としては、足の浮腫(むくみ)がひどいので、足浴(足を洗う)の時にマッサージをするのはよくないことなのか?担当のケアマネジャーからは違法だといわれた、という相談内容だった。
どうやらことあるごとにそのヘルパーとケアマネジャーは意見ぶつかっていたようだった。

さて、
何人かのケアマネジャーを経由して、そのヘルパーさんからの推薦で担当することとなった。
娘も手ごわいが、本人もなかなか手ごわい。
そう聞いていた。

人の好き嫌いがあり、遠慮はなかった。
芯のとおった人で譲らなかった。
室内用昇降椅子で3階にのぼり、朝のお参りに約1時間かける。
お供えは、各1キロの塩などを供える。
欠かすことなく毎日行われた。
しかし、持病のある要介護者で90歳ともなると、一人でおこなうには無理がある。
それを誰が手伝うのか、それを認めてよいのか
などなど、支援の難しさがあった。
「介護保険」や「支援」「コンプライアンス」「給付」の視点でみると困惑する。
ひいてみる、というか「その人の生活」をみると、その行為はその人にとってとても自然だった。
当然のことだった。
継続することの意味は十分にあった。
それが、家で、自分の暮らしを続けるということ。

ケアマネジャーがそれをチームで共有することになかなか苦慮していことがよくわかった。
その時、言われたサービスをやる、スタンスでは、この人の生活を支えるのは難しく、この人の生活を支えるための支援を各自がおこなうことが求められていた。
さて、最終的には、10事業所が集まることにもなった。

その彼女は、95歳の時に契約を終了することになった。
数年の付き合いだったと記憶している。
事業所内で三人目のケアマネジャーが担当していた時だった。
介護者である娘さんからは、
「あなたに担当してほしかったけど、忙しいのは重々承知している。でも、ほかの人だと頼りなくてだめです」と断られた。
サービスをつなげるだけでは、実現しない。
そのチームに、ケアマネジャーがどう関わるか、その姿勢が求められていることを痛感した。

その彼女は、Fチズさんと言った。
徳島県の生まれだった。
若い頃は商売をしていた。
仕入れに行くときには、札束を腹にしめた帯にしっかりと挟んでいた、と話した。
仕入れたものは、次から次へとよく売れたそうだ。
当時、彼女が住んでいた場所は、駅前の市場。(後に火事で焼け、再建されなかった)よくにぎわっていたと想像できる。
阪神淡路大震災で倒壊したあとは、三階建ての一軒家に住んでいた。
夫のことや徳島の兄弟、自慢であろう娘の話などは一切しなかった。

足元がおぼつかなくなり、人の手を借りるようになり、
人の世話をしてきた彼女のうちにはどんな思いがあったのだろう、と今は思い出す。

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