ほんとうに「失笑の嵐」なら将来に心配しかない
昨日(8月4日)ネット上で「失笑の嵐」がトレンド入りしたそうだ。
自民党の二階幹事長が「今すぐ菅首相を代える意義は私は見つからない」と発言した記事を添付してTwitterに投稿する流行から、らしい。
圧倒的大多数が「のっかってみた」だけの、いつものあれだろう。
が、最初の投稿が本気でそう思っていたと仮定して、追随した誰もが同じく考えているのであれば、それこそ不安な気がするのは私だけだろうか。
どう聞いても、こんなものは建て前だ。
あれこれ片付くまでは、ただ泥をかぶるだけである。
挿げ替えようと泥をかぶり続けるだけである。
ところで嵐の中で出しっぱなしの洗濯ものを見かけたらどう思うだろうか。
あるいはそれが、あなたのものだとして。
洗い直して干すだろう。
もちろん嵐が収まったあとに。
収まりもしないうちから干しなおす阿呆はいない。
二階幹事長はそう言っているように聞こえる。
ただ、そのまま言ってしまうのも角が立つ。
しのぎ切るまで同じ批判しか受けないだろう状況で「今すぐ菅首相を代える意義は私は見つからない」のだ。
ボケてもいないし、むしろ当たり前のことを言っている。
失笑は本来、笑うべきではない状況で思わず吹き出してしまうことだ。
その意味であれば正しくあるかもしれない。
が、おそらくは違う。
ふざけたことを、とあきれて失笑の嵐だ。
とすれば、いまごろ失笑しているのは二階幹事長のほうだろう。
阿呆ばかりだ、くらいに思っていても驚かない。
考えもせず「そうだそうだ」の大合唱では見えないものもある。
そればかりに慣れた世論の将来には心配しかない。
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タイトル画像は「川中紀行/コピーライター」様からお借りしました。
味のある手書きの線が目を引きます。
ありがとうございましたm(__)m