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【旅行】ヴェトナム紀行 3 ヒューイ中尉

知る人ぞ知るというべきだろうが、サイゴンには一風変わった現地ツアーがある。
なんでもアメリカ軍が大量に残していった車両がまだしっかり稼働していて、ジープを使った現地ツアーがあるということを何かで知った。
非日常極まれりという感がしないでもないが、サイゴン滞在中の何日目かにマジェスティックホテル前をM151ジープが軽快に走り去ったのを見かけ、まるで開高健のベトナム戦記そのものの風景だなと思ったのがきっかけでさっそく業者をネットで調べて申し込んだ。
そうするとメールで返事が返ってきて、今日宿まで代金を取りに行くのでよろしくということだ。
日本円だったら卒倒しそうな数字の金額を支払うと、では翌日8時にジープが迎えに来るので楽しんでくださいねということだった。

乗った車両と同じもの

さてジープツアーとはいえ、厳密にはジープではない。
M151という1960年代にアメリカ軍が使っていたフォードの小型四輪駆動車で、いわゆるジープとされるウィリスMBとかM38の後継車両だ。
但し「ジープ」という呼称はすでに登録商標になっているので使うことができず、ためにアメリカ軍はMUTT(マット:軍用戦術車両の略)と呼んでいたそうだ。
冬とはいえ夏みたいに暑いサイゴンだが、見ての通り屋根もドアもないので、これ以上風通しがいい車はなかなかないだろう。
こんな車に乗って、ヴェトコン(解放戦線)の地下陣地とカオダイ教の寺院を見に行くという1日ツアーに申し込んだわけだ。

そうして当日朝8時に宿の前に立っていたのは、50歳前後くらいに見える痩身でおだやかなガイドさんだった
英語が大変流暢なひとで、はっきりしたアクセントがとても聞きやすかった。
挨拶もそこそこに、この車両はM151のA1ではなくてA2なので安心しなさいと言われた。
普通の人だったら何のことだと思うだろう。
実はM151の最初の改良型であるA1はリアサスペンションに不具合があって旧カーブで横転しやすいという欠点があり、A2はそれを改善したモデルだということを知っていたのでなるほどそうかと思ったが、タミヤのプラモの組み立て説明書の説明がこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。

宿の外には本当にM151がいた
後席に乗り込むためには前席を跳ね上げなければならない
サイゴンの街の中では大変目立つ
ガイドのおじさんは道中こうやって話を聞かせてくれる

ジープがサイゴン市街を抜けて郊外の1本道を疾走する間、助手席のガイドのおじさんは後席の我々に大声でいろんな話をしてくれた。
このあたりは第一次インドシナ戦争の時にフランスからの独立のためヴェトミンが最初に地下陣地を作ったあたりで、後にクチ・トンネルを構築するに当たって大いに役に立ったらしい。
それはどこかの軍事顧問が教育したのかと聞くと、否、生きるためなら人間は何でも考えるものだ、クチ・トンネルもVCが生きるために考えたのだと答えた。
ほう、ヴェトコンをLiberation Front(解放戦線)と呼ばずにVC(ヴイー・シー:Vietnam Congsangのアメリカ軍での略称)と呼んでいるところを見ると、このひとは戦争中は南にいたひとなんじゃないかと思った。

クチ・トンネルに到着

ガイドのおじさんは、クチ・トンネルの敷地内に展示されていたアメリカ軍のUH-1ヘリコプターの前で、私はかつてこいつのパイロットだったのさ、となつかしそうに語った。
後に聞いた話では、かつて南ベトナム空軍のFirst Leutenant(中尉)だったとのこと、これで流暢なアメリカ軍式の英語の謎が解けた。
このひとの名前はTran Van Thuyといい、同姓が多いベトナム人は名前の最後の音節を個人の略称として使うことから、通称Thuyさんというのだが、UH-1ヘリコプターの愛称であるHeuy(ヒューイ)とごろが合うことから、アメリカ兵からはヒューイと呼ばれていたのだとうれしそうに語った。

アメリカ軍が置いて行ったUH-1ヘリコプター

In war time(戦争中はねェ)
という切り出しで様々な話がヒューイ中尉の口から語られる。
これはM79というんだが、こいつが人間に当たるとどうなるか知ってるか?頭以外は何も残らないんだぞ、というようなブッソウな話もあれば、VCもこうしてハンモックを携行していて、時には負傷兵を運ぶのにも使っていたが昼寝もしていたのだよと、ハンモックに寝転んでみせる。

ハンモックに横になるヒューイ中尉
黒い(ブラックパジャマと呼ばれる農民服)VCは南の人間で
緑の(北ベトナム軍の野戦服)VCは北から来たVCだ
作戦会議ではなくクチ地方をめぐる攻防戦の説明をするヒューイ中尉
ここがトンネルの入り口だが一目ではまったくわからん

また、クチ・トンネル敷地内の休憩スペースのようなところでは、当時VCが主食にしていたというタロイモを蒸したものの試食ができるが、できれば一口だけにしておいたほうがいいぞとヒューイ中尉は小さくささやく。
なんでもこの辺はAgent Orange(枯葉剤)で当時は丸裸だったのだという。

ヒューイ中尉のPort, Arms!の号令で控え銃の姿勢を執る私
口調は完全にアメリカ軍のそれだった

帰途のM151ジープの上で、様々な話を聞いた。
もう少し先の村にナパーム弾が落ちたことがあって、有名なすっ裸で逃げる少女の写真を知っているか?あれはここで起きたのだ。
それは南ベトナム空軍による誤爆ですか?
いや、ここにVCがいるという情報部の指示によって行われたのだ。
ところでVCといっても北から来たVCと南の人間が転向したVCとがあって、北のVCにはいくらかの共産主義者がいただろうが、南はそうではない。
こういうことによって南の人間もVCになったのだ。

ナパーム弾はこの小さなカオダイ教の寺院の裏に落ちたそうだ

あなたは戦後どうしたんですか?
再教育キャンプに9ヶ月送られたのさ、あれは洗脳だったね。
その後はなにもしてないよ。

帰途のジープの上で

20世紀の中庸以降、ベトナムにはほとんど平和な期間がなかった。
1939年のパリ陥落により、ヴィシー政権側となったベトナムは、その後進駐してきた日本軍の軍政下に置かれ、1945年に日本軍の退去と同時に独立への機運が高まる。
時同じくして植民地の復活を企図するフランス軍および同じく東南アジアにおける植民地喪失を危惧する英軍の再進駐が始まり、ここにベトナムの独立戦争(第一次インドシナ戦争)が起きる。
これは1954年のディエン・ビエン・フー陥落によってヴェト・ミン側の勝利となり、ベトナムは独立を勝ち取るが、今度はアメリカとソ連の代理戦争として、さらに大きな渦に巻き込まれるのである。

共産主義の拡大を防ぐためにアメリカのケネディ政権はベトナムへの本格的介入を開始、1963年には本格的な戦闘が始まった。
アメリカは反共政権として南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に多額のドルと人員を投入するが、悲しいかな南ベトナム政府はひどい軍事独裁政権で民衆の支持を得ることができず、またジョンソン大統領の時代になると、兵器の一大消費地と化したベトナムで戦争を続けることが、アメリカ(軍産複合体)の国益に適うということで、勝つつもりのない戦争を延々続けるという泥沼化が進む。
ヒューイ中尉がUH-1に乗っていたのはこの時代の話だ。

1973年にはアメリカ軍が撤退、75年にサイゴンが陥落することで第2次インドシナ戦争(一般にベトナム戦争として知られる)は終結する。
その際南ベトナム軍の将兵だけでなくVCも解体、まさに走狗煮らるということか。
その後ヴェトナムはポル・ポト政権による恐怖政治と虐殺が続くカンボジアに侵攻、これを解放するが、ポル・ポトの後ろ盾であった中国が不快感を示し、懲罰と称してベトナムに侵攻するのが1979年の中越戦争である。
処刑した人間の写真をたくさん送れば送るほど周恩来がほめてくれるといったポル・ポト政権を倒してカンボジアを解放したベトナムを当時の日本のメディアはこぞって批判したというから、私は日本のいわゆる平和運動およびその路線のマスコミを信用しないのだが、そのベトナムに侵攻した中国は、一方的に攻めてきては勝手に負けて勝手に撤退していった。

1980年になると、ようやくベトナムから戦火が治まるが、社会主義政権はあらゆる民衆にとって酷なものであったに違いない。
ドイ・モイ(刷新)政策によってベトナムが活気付くのは80年代終盤に入ってからのことだ。
日本で言う戦後と呼ばれる期間のほとんどを戦争で過ごして来たベトナムの現代史は艱難辛苦に満ちたものであり、だからこそ今こうしてベトナム人が豊かで平和な暮らしをしていることに、大変救いを感じる。

ヒューイ中尉はその後VJT(Vietnam Jeep Travel) Adventure社という旅行社を起こし、アメリカ軍の残していったジープを使ったユニークな観光業を展開している。
M151を最大で35台用意できるのだとのことで、ホームページのFAQ欄がなかなか楽しい。

ジープは故障しませんか?
我々は「そういうこともあります」と答えるべきでしょう。考えても見なさい、きちんとした整備を行っていても30年もたったエンジンは時にそういうことも起きるでしょう。我々のやることは、事前点検と必要な場合のバックアップ案を検討することで呼称によるリスクを極力少なくすることです。大きなジープツアーではメカニックが同行し、応急処置が取れるようにしています。

これらのジープは安全ですか?
正直なところ我々のジープは最新型ではなく、エアコンなど快適な設備も付いていません。ほとんどのものは戦争中使用されていたもので、ツアーを快適に遂行できるよういくらかはエンジンの換装も行っています。我々の仕事の理念は冒険と自然への接近であり、だからこそジープなのです。

その日の夕方、ジープは再びサイゴン市内に戻ってきた。
タン・ソン・ニュット空港の敷地の脇には、今でもアメリカ軍が基地として使用していた建物が残り、街へ続く三叉路の左手には、今では何か軍が使っているようだがここが昔のMACV(Millitary Assistance Command in Vietnam:アメリカ駐ベトナム軍事支援司令部)だったのだよと教えてくれる。

かつてのMACV

今のベトナムの平和な日常は、かつての30年以上に及ぶ戦いの上に成り立っている。
We were soldiers!というヒューイ元中尉とドライバーのおじさんの顔は、戦後40年近くたっても誇らしげだった。

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