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【旅行】仙台苫小牧ドンブラコ −4− 多賀城の新しい国宝

「城」という漢字がある。
今は城ブームということらしいが、さて多くの人がこの漢字を見て想像するのは多分瓦葺きで白壁の天守閣ではないかと思う。
実際商業的にもそのイメージで通っていると見えて、城というと天守閣の写真がなければPRすらできないかのように思う人が大半であるようだけれども、まことに残念な話だ。
城というのは防御などの目的のために作られた人工の要害のことで、天守閣なんてものは単なるパーツに過ぎない。
観光的価値は別として、あろうがなかろうが城の持つ価値に大して影響も及ぼさないであろうし、近世以降火器が発達してくると、こんな目立つ可燃性の構造物なんぞはない方がよほどいいに違いない。
では城を代表づける要素は何だね?とやや気色ばんで問う人がいたら、私は「それは縄張だよ」と答えるであろう。
縄張とは城の平面レイアウトのことで、どのような地勢の場所にどのような防御効果を期待してどういった規模のものをどのように拵えるかということはひとえに縄張次第だ。
昔遊園地に巨大迷路というのがあって人間が実際に出口を目指して彷徨うというものがあったが、あれの設計が城の縄張と言ってよい。
自然の地形を利用してどのように敵を引き入れて待ち伏せし、損害を最小に留めつつ敵の損害を極大化するかということを極めるのが城の本質と言えるだろう。
従って天守閣なんてものは、あってもなくても城の本質には大して関係がなかったりする。

朝倉山城縄張図(福井県福井市)

ところがもっと古い時代になると「城」というものの様相がずいぶん変わってくる。
そもそも城という漢字は中国語では防御的機能を持った城郭都市を意味する文字で、四方を城壁に囲まれた街そのものを指し、げんに現代中国語でも都市を「城市(chengshi)」と表現する。
奈良時代から平安時代の前半くらいまでは遣唐使が大陸から持ち帰った大陸の文明が日本のあらゆるものの手本となっていた時代があり、藤原京や平城京といった条坊制によって作られた碁盤の目のような街路を持つ都市もこの時代に範を大陸にとって作られたものだ。
特に平城京に「城」という文字が使われているのは、本来の都城という意味合いが感じられる。
またこの時代に「城」の字を持つ施設もいくらか作られる。
福岡県の大野城や宮城県の多賀城がそうだ。
これらは異国もしくは異民族に対する防御を考えて大和朝廷の国家事業として作られた施設であることが共通しているが、同じ城という文字を使っていても大野城と多賀城ではその構造も目的も大きく異なる。
大野城は天然の山岳地形を石垣などで強化したストロングホールド(要害)であったのに対して、多賀城はむしろ本来の意味である都城に近い。
規模は小さいものの平城京の内裏に相当する中核部分に政庁があり、さらにその周辺を囲壁で囲んだ構造をしていて、それぞれの方角に門はあるが防御的な機能は薄く、むしろ九州支配の官衙であった太宰府に近い。

こんにちの太宰府中心部

なお太宰府のレイアウトを見て、寺のようだなと感じるかもしれないが、これはむしろ逆で、本来大陸の役所というものはこのように四方を囲壁で守り、南に正門を設けてシンメトリーにさまざまな建屋を配置し、中央奥にその主体となる大きな堂を置くというものだった。
「寺」という漢字もそもそもは役所を意味する文字で、中国に仏教が伝わった頃に鎮護仏教的な思想もあったのかどうか、まずは役所に仏像を安置するようになり、これが後世仏教でいうところの「寺」となった。
従って、この太宰府や多賀城のようなものが本来の意味での「寺」であるとも言える。

さて、多賀城は大和政権の東北における支配の中枢として置かれたもので、当時このあたりは蝦夷(えみし)との競合地域で、言うなれば異民族に対する最前線、ここを防衛し統治するのが多賀城の役目だ。
蝦夷というのはこんにちのアイヌ民族を指すわけではなく、大和朝廷に従わない東北の独立勢力を指し、多分文化的にもヤマトとはいろいろ異なっていたのだろう、映画「もののけ姫」の冒頭に出てくる村がおそらく蝦夷をモデルにしていると思うのだが、つまりはそういう人たちだ。
適当なことを言うといろんなところからお叱りを受けそうなのであくまで私の妄想として書くが、東北地方は寒冷な気候のため稲作が伝播するのが結構遅く、従って弥生時代以前の狩猟採集及び原始的な農業を営んでいた縄文文化が割と後まで続いていたと考えられる。
人種的にどうであったかはわからないが、本州で出土している縄文人と弥生人の骨相が明らかに違うことから、もしかすると出自も別の民族だったのかもしれない。
当然言葉は違ったであろう。

また、大和朝廷は奈良時代から律令制といって大陸の統治システムを採用するのだが、統治とはすなわち領土をいかに保全し税収を安定して得るかということが本質となる。
そのために公地公民といって全ての田畠を国有化し、民に貸与して税を課すために班田収授ということが行われるのだが、ちょうど1930年代のソ連や1950年代の中国がやったような社会主義集体経済のようなものだ。
これはどうやらできた当初から崩壊が始まったようで、程なくして三世一身法(新規で開墾した田畠は3代に限り私有を許す)、ついで墾田永年私財法(時限を定めず私有を許す)というように緩和されるのだが、これに納得が行かない民が続出し、逃散といって貸与された班田を放棄し逃亡する民が多く出るようになった。
こうした逃亡民は大和政権の支配の及ばない地域を目指したことは容易に想像できるため、そうした人々も一定数いたのではないかと思う。

そうした反政府勢力を制圧し支配下に置くのが多賀城の仕事で、のちに幕府と呼ばれる政体の最高権力者を意味する征夷大将軍という職種は、本来これが本業であった。
有名なところでは坂上田村麻呂という人がいて、蝦夷征伐に功を為す人物なのだが、何もこの人が最初の征夷大将軍というわけではなく、7世紀の対蝦夷戦争の頃から何人も将軍として派遣されては矢面に立っていたわけで、その中には大伴家持のような歌人として知られる人もいるので意外なものだ。

さて、多賀城は724年に作られたとのことなので今年でちょうど1300年になる。
昔から多賀城には興味があり、遺構の整備もずいぶん進んで付近には東北歴史博物館という立派なものもできたというので、今回是非とも訪問してみたい場所であった。

多賀城の南門があった丘
築地塀跡にサギがいる
築地塀と櫓の跡

多賀城はなだらかに起伏がある地形の上にあるので、レイアウトは条坊制の幾何学的なものながら割と高低差がある。
周囲を囲っていた築地塀は一部が復元されていて、ビニールシートで養生されているので往時の姿がイメージしやすい。
この築地塀は粘土を何層にも積んではヨイトマケのような工法で突き固めて積層して作るもので、中国の都城に親しい人ならむしろ版築といったほうが通りがいいかもしれない。
のちの中世城館に見られる土塁と異なり大変強固なもので、近年遺跡が整備される前でもその遺構が確認できる程度には現存していたのだから、大したものだ。

国土地理院空中写真より1968年の多賀城付近
復元された南門

現在南門跡には門が復元されていて、周囲を囲っていた築地塀も一部が付属している。
この築地塀は断面が見えるようになっていて、なるほど突き固めた粘土を積層にしている様子がよくわかる。
南門のデザインも柱や梁を丹塗りにした天平のフォーマットそのもので、建築が国家の威信を体現するというのはいつの時代も変わらないようだ。
寺の山門のようにも見えるが前述の通り逆で、仏教寺院が当時の官衙のフォーマットを真似ていると考えるとわかりやすい。

南門の丘から東の築地塀を望む

さて、多賀城には実は日本で一番新しい国宝がある。
新しいといってもできたのは8世紀なのでそのもの自体は大変古いのだが、2024年9月に正式に国宝に指定される予定の石碑がある。
多賀城碑と呼ばれるものがそれで、多賀城の来歴が記された8世紀の石碑で、長い間埋もれていたものを仙台藩が発見したというものだ。
この時代の石碑となるとそれ自体が珍しく、日本三大古碑の一つとされながらも明治時代にこれは真贋が疑わしいとされたことから、近年まで偽物としての扱いを受けてきた。

仙台藩によって建てられた石碑の覆屋

偽物とされた根拠はいくつかあって、その一つが彫り方が当時の薬研彫りではなくこんにちの箱彫りであること、それから筆跡が複数あって元々別々の碑文を写しとって作ったものではないかという点、それから碑文に書かれた多賀城の改修履歴が実際の遺跡と照合ができないということだ。
うち前の二つは後に問題なしと判明、残るは碑文に書かれた多賀城の来歴だが、近年の考古学調査によって裏付けされたことから、本物であると認定されるに至った。
決め手になったのは戸籍の一部と見られる木簡が出土したことで、律令制の根幹である戸籍の整備と碑文の年代に矛盾が生じないことが証明された。
また碑文にある多賀城の修築履歴と実際の遺跡から発見された修築の痕跡もずばり符合することから、考古学的にも価値が認められ、それで2024年に新しく国宝として加えられるということらしい。

この石碑自体も数奇な来歴を経てきたようで、762年に碑が建てられてから程なくして何らかの理由で埋められてしまい、長らく存在が忘れられていたものが、江戸時代の初めに発見され仙台藩によって再び立て直される。
そのまま野ざらしとなっていた碑を芭蕉が見て、かつての多賀城も往時を留めるものはこの石碑だけかと記したのだが、その存在を知った水戸の中納言こと徳川光圀が仙台藩に指示を出し、大切に保存するよう覆屋を建てよと命じてできたものが、こんにち碑を覆っている堂宇だ。
この堂宇を平成の中頃に解体修理を行った時の調査では、どうやらこの石碑は初めからこの場所に立っていたようだということがわかった。
明治時代にはにわかに偽物扱いされるようになり、100年ほど不遇の時代を過ごすことになるのだが、多賀城創建からちょうど1300年を経た今年になって国宝となる。
この石碑の視点から1300年間の話を書いてみると、よほど面白い話が展開されるに違いない。

奥の壇が政庁跡
復元された政庁南大路
第Ⅱ期修造時の様子を復元している
多賀城碑の近くには傾いた碑が残る
一行目は奥の細道と読める

多賀城は大和朝廷による東北支配の根拠地として長らく知られてきたが、その実態はそれまで考えられてきたような異民族を征伐して服従させるという武断的なイメージとは異なり、近年の発掘調査によると異民族を饗応し、柔らかい対応で融和していくというものだったことがわかったそうだ。
様々なところから挨拶にやってくる蝦夷をここで迎え、宴会でもてなし、希望するものには文字を教え、能力のあるものは登用するというスタンスだったらしい。
異なる文化の交わるところには独特の魅力があるもので、はるか平城京からやってきた大和政権の役人や、地方公務員ともいうべき地元の郡司や職員、そして大和言葉が通じない変わった格好の蝦夷の人々が酒を飲んで歓談し、どんな楽器だかわからないが何かの音楽が流れ、それぞれの舞を披露するというようなことが日々行われていたのだと想像すると面白い。
実際に現地の遺跡に立ってみると、そういう風景が見えてくるようで、現にこの場所で当時の人が歩いたり喋ったり笑ったり戦ったりしていたのだということをイメージするのがとても楽しい。
グーグルさんマップの航空写真で眺めるのではなく現地に立つということの楽しみはこれに尽きるなと思う。


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