どんな人にどんな風に寄り添えるか分からないけど、 まず私という人間を知ってもらうことが 第一歩かなと思い、 改めて私の生い立ちや現状を書いてみます。 ちょっと長いですが、 重なる部分や共感する部分があれば ぜひ分かち合いたいです。 【私の生い立ち】 父、母、双子の兄の5人家族の末っ子に生まれ、4歳から大分の田舎に家族で移住しました。 小学校は全校6人と超小規模校で、 理由ははっきり覚えていませんが、 小1の2学期くらいから不登校になりました。 まだ不登校が珍しかった当初、
久々にnoteを開きました。 父との考察を始めたかと思いきや、 先月父が脳梗塞で倒れて関係性もまた変化しました。 それについてはまた考察として 順を追って書きたいと思います。 タイトルは付けたものの ここ最近の感情思考の整理的な感じで書かせて頂きます。 ライフステージが変わったと感じた出来事、 そして現段階でどんな意思決定をしたのか、 改めて振り返ってみます。 ①結婚出産を意識する 父が倒れるほんの少し前、 思いがけず恋人が出来ました。 今まで散々「絶対年上がいい!」だっ
父への考察シリーズは今回はお休みしまして、 今日は不登校時代の私を支えてくれた居場所のお話。 大分県教育委員会が主催の 不登校及び不登校傾向にある子供のためのキャンプ(現在は不登校児のみらしいです) 『ふれあいキャンプ』というのがありまして。 このふれキャンは小学生から高校生までの 不登校や不登校傾向にある子が参加、 職員さんが企画運営、 大分大学の心理コースの学生さんが メンタルフレンドそして関わってくれており 一応プログラムはあるものの、 見てるだけでもいいし部屋にい
私の入学した小学校は、超小規模校だった。 全校生徒6人、そのうち3人がうちの兄妹。 入学当初は学校が楽しみでウキウキで登校していた。 しかし秋、冬くらいだったろうか、 小さなコミュニティの中で上手く生きていけず 不登校になった。 まだ当時は不登校は珍しく、 ど田舎なのでご近所の目もわかり易かった。 父はそういった世間体を気にするタイプで、 よく学校へ行けと怒られた記憶がある。 何で行きたくないんだと聞かれても 自分でも何でかよく分からずただ泣き叫んでいた。 すると泣いてる
書こうと思いつつ体調不良やらで noteどころではございませんでしたm(_ _)m やはりこういう内容は日付を越えたくらいが 一番筆が乗りますね。 幼少期、私の父との記憶は 4才で家族で田舎に移住してからのこと。 それまでの間の父との記憶はありませんが、 アルバムを見るによく遊んでくれるハンサムな父だったようです。 「暖かい田舎で自分の工房を持ちたい」 という父の願いから、 兄達の小学校入学に合わせ移住。 春先に家探しをしたが故に 結果極寒の地でありました。 父は当時木
年々父が嫌いになり、 結婚しても絶対バージンロードなんか一緒に歩きたくないと思っております。 介護も私は絶対にしたくない、 葬式の時納棺だけはしてやってもいいかな。 くらいに心底嫌っております。 というのもうちの父はなかなかのクズ太郎で。 ここまで毛嫌いするに値することをやってきた人だと思っております。 ただここ数年、 その父のクズエピソードを他人に話しまくって、 散々ネタにしてきました。 もちろん相手を選んで話していますが、 先日ここまで笑ってくれるかというくらい 父の
ついに20代を卒業し 人生30年目を迎えました。 30年間生き延びてこられたのは 私の人生に関わってくださった沢山の方々のお陰です。 心から感謝申し上げます。 20代を振り返って 長かったような短かったような20代。 20歳は学生ど真ん中で実習、サークル、 ボランティア、バイト等々明け暮れて。 21歳はどっぷりカタリバ。 ひとつの事に心血注いだ大事な期間でした。 22歳は進路に悩みもがきケニアに行き、 無茶が祟って体調崩し、キャパに合った暮らしを考えた時期でした。 23
ずっと行き当たりばったりに その時その時の流れやご縁で生きてきました。 保険や投資など 万が一に備える世の中の広告にも イマイチ心が動かされないタイプです。 ですが最近になって まだ先だと思っていた 「親の面倒をみる」という出来事について 考える機会がありました。 親との関係性や距離感として 同居やガッツリ介護は難しいとは思っています。 でも最終的には面倒みないととは思っているし 今回も母に私ができる範囲の提案をしました。 でも結局決めるのは母で 母が決断するのを待つしか
久しぶりにnoteを開きました。 葬儀のバイトを始めて 週に4日はダブルワーク、 残りのうち2日の昼間にやるべきことをやって 1日は完全オフ。 基本的にはそんな感じなんですが 体調的にやることやれなかったり 休みの日でも動き回ったり まぁそれでもだいぶ生活リズムが安定してきました。 先日、バイトでクレーム対応をしました。 私バイトなんだけどな〜と思いつつ やるしかなかったのでやりましたが、 終わったあととてつもなく疲れきってしまい 頭の中がわーーーーーーって感じで。 対応
新年あけましておめでとうございます。 今年もぼちぼちと思いの丈を残していこうと思います。 さて、2023年は私にとって 駆け抜けた1年、孤独と戦う1年でした。 丁度年明けくらいから本格的に カフェバーのオープンに向けて クラファンをしたり内装を決めたり どんどん準備を進めていきました。 クラファンや融資など資金集めも 初めはなかなか上手く行かず、 やべぇかもしれんと思いつつ必死にもがき 皆様のお陰で何とか資金を集めることが出来ました。 そして具体的にオープンが現実となっ
何をやっても上手くいかない 結果が出ない 何となく今の仕事に就いた 楽しくはないけど生きていくためには働かないといけない 誘われたから、勧められたから やりたいことはあるけど仕事にする自信はない 頑張らなきゃと思うけどどう頑張っていいか分からない でもダメだったら、もしこうなったらとつい思ってしまう 自己啓発本が言ってることも分からんではない でもそう簡単に変わるわけないじゃん 自分ではどうにも出来ないことだってあるし 笑顔とか感謝とかそんなことは分かってる 多分これに共
これは前職の時にも強く学んだこと。 “人間いつ何が起こるか分からない” 突然病むこともあるし 突然別れが来ることもあるし 突然とは唐突に然るべくしてやってくる。 我々がどんなに万全を期しても その突然は避けられなくて それによってどんな感情になるかも分からない。 前職では「突然死」を数多く目の当たりにした。 本人も突然だろうが、 死後の本人のことなんて分からない。 でも突然家族を失った人達は沢山見てきた。 その心中は図りきれない。 どんな感情を抱こうと もうその人は
最近の夢は、 仕事と住まいをつくることです。 というのも、 人間この2つがあれば 何とか生きていけるんじゃないか と思うからです。 そんなのいくらでもあるじゃないか。 そう思われると思います。 いつだったか投稿した 「これからやっていきたいこと」に書きましたが 私は"生きづらさを抱えた人と共に生きたい" だから、つくりだす仕事も住まいも そんな人達に向けたものにしたいんです。 超理想論かもしれませんが、 生きづらさを抱えた人同士が集まって お互い補い合いながら働いたり
人間良い時もあれば悪い時もあり、 それは必然だと分かっています。 でもだからこそ、 その悪い時の弱い自分を忘れたくないな と思う出来事がありました。 当時病んでいた友人とその時は めちゃめちゃ共感し合えて分かり合えてたのに 久々に会って調子を取り戻した友人とは 何だか話しててもしっくりこなくて。 漠然と凹んで帰ってきたのを覚えています。 その凹みは 調子が戻って活躍する友人に対する羨望なのか 分かり合えなくなった悲しさなのか 仲間だと思っていたのに勝手に裏切られた感なのか
この瞬間(とき)が終わらなければいいのに 小さな昭和レトロのお店 その場を魅了する歌声 愛し愛されし者たちが集い ひとつになってゆれている あぁ、この雰囲気。 月日が経った今も この場の1人で居られて 心からの幸せを噛み締めている 当たり前にそこにあって 当たり前に美味しくて 当たり前に笑顔になれる 当たり前に支え合って 当たり前に愛が溢れて そしてこれがファミリーなんだ この瞬間(とき)が終わらなければいいのに 1年前の大きな炎 真っ白に染る視界 不安と悲しみを抱えた
小さなまちの小さな店で カウンターから見る空は曇っている 静かな店内 来るかも分からない誰かを待ちながら 今この詩を書いている あなたと出会ってもうどれくらい 少しは成長できてるだろうか 相変わらずもがいてて 相変わらず打たれ弱くて でもきっと進んでいると信じてる かけがえのない出会いを沢山重ねて 今日という日を噛み締めている そのどれかひとつでも 欠けてちゃだめだったんだ あなたがいて、今の私なんだ。 小さなまちの小さな店で カウンター越しに見る空はもう暗い 穏やかな