視野と視界
確実性を信じている人たちの中に、私には好感が持てる人と苦手な人が居ます。
私は、人間が何歳で、どの時代どの国に生まれて生きていても、自らのありようを真に操作出来ることなんてないのではないかと考えています。ですがそれを操作可能と考える人たちも居ます。
これは例えですが、自らの身体が強いのは確かな方法で付けた筋肉があるから、みたいな思考があって。それを私は確実性を信じることと捉えています。これが確かな方法で強い身体を手に入れたというだけの話であれば好感が持てるし、(私は運動を継続することが出来ないので)尊敬します。しかしその方法を唯一の正解として他者に教えようとしたり、押し付ける人が苦手です。ここでは筋肉がつくことが結果で、方法がトレーニングとなります。確かなトレーニングで確かな結果が得られるということ、それを筋肉以外でも結果を出して人生が操作可能であると考えること。個人がそう考えるだけなら自由なのですが、現代ではどうもそれだけで済んでいないことが少なくないなと感じるのです。つまり、あなたの身体が弱いのは確かな方法でトレーニングをしていないからだと人を断ずる人が少なくないということです。
このことを筋肉の話以外で置き換えて考えてみて欲しいです。あなたに仕事がないのは、あなたにパートナーが居ないのは、あなたに○○がないのは。私は今の私にまつわるあらゆる結果(ポジティブな結果もネガティブな結果も全て)が私自身によって操作されたものとは考えていません。結果を左右した言動が自身に数%もなかったとまでは言いませんが、仮にあったとしてもやはり操作した(出来た)とは到底思えません。私にはこれまでも、運良く喜べる結果に恵まれたことがあったし、運悪くも打ちのめされたことがありました。喜ばしい結果には恵みの雨に打たれるかのようにその幸運に感謝しました。打ちのめされてもその後にも命を継いで今もまだここに居られることについては、それもまた幸運だったと、ありがたいと感じています。
自身の人生が操作可能なものとして、確実性を信じてトライする人のことを悪く言いません。ただ、前述したようにあなたが貧弱なのはこれをしていないからと他者を攻撃する人に対しては思うことがあります。
あなたの筋肉(確実性を信じること)を、誰も奪いません。嗤いません。あなたはあなたのまま、信じる道を極めて行って欲しい。それであなたが幸せであるのなら、私は嬉しい。ただ、もしもこの先、あなたが操作出来ない何かに見舞われて失意する時、私はあなたとだってこの時代を生きて行きたいと願っています。大変な時代、あなたとだって生きていきたい。それと同じように、あなたが傷つけたかも知れない人たちの幸せも願っています。うまく表せないけれど、涙が出る想いです。
もう少し若い時なら、私は不快感すら抱くような、自身と異なる価値観を持つ人に対しては、その人の存在を自身の人生の視野から外していました。けれど、視野と視界は違う。後者は首を左右に振れば見える世界が変わる。つまりいつか私が排除したあなたが居る。私たちは同じ世界に生きている。あなたも私も、誰かを視野の外に追い出しても、きっと何も変わらない。かなしみだけが続いていく。私が失意する時にも、あなたにだって助けて欲しい。よろしくお願いします。私は私で、この世界の不確かさを認めて、その上でその時その場面で最善を尽くしていきたいと考えています。