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佐倉で桜


Cong くんと一緒に初マラソンを完走した興奮が覚めやらない 2023年12月3日(日)、 彼から facebook メッセージがはいったらしい。

12:42 「来年は桜の中をマラソンしませんか」

ワラーチで走った富士山マラソンを終えて、一本歯下駄の練習を始めたばかりで、その日は妻と散歩に出ていたようだ。昼に発信されたメッセージを開いたのは夕方になってから:

18:08 「佐倉で桜ですね!いいかも。予定を確認します。四月に国際会議を企画していて、その準備にぶつからなければ大丈夫です。」

そして、(おそらく、いつものように食事を終えて「どうする家康」に齧りつき、のんびりした)晩になってようやくメッセージのことを思い出したのだろう。3月の予定を確認して、

23:53 「行けそうです。大丈夫です。申し込みますか?」

というなりゆきで、すっかり桜満開の佐倉市で走る気分になっていた。

この年の冬はエルニーニョのせいか、地球温暖化のせいか、ジェット気流の蛇行のせいか、異例の温かさだった。東京で 3月14日に開花した前年以上に早いのではないかと噂され、桜の佐倉は現実になるのではないかと期待が高まった。ところが、3月にはいって寒気のぶり返しがあって、開花時期の予想はどんどん遅くなっていた。心のなかで満開が五分咲き、二分咲きとシュリンクし、大会前々日には日本で一番早そうだと言われた東京でさえ開花しない予想に変わってしまった。

大会前日に現地入りして地元の人に聞いたことには、「佐倉の開花はいつも東京から一週間くらい遅れるんですよ」だそうだ。じゃあ、元々、桜は期待できなかったのね。

でも、桜の蕾は硬いままだというのに町は桜色を呈していた。桜の時期だけ、京成佐倉駅は桜駅を名乗り、観光客が群らがって一時的につけかえられた駅名の看板を撮影していた。


氷雨に凍えた前日からうってかわった好天に恵まれてそこそこの軽装で望みました

寒いの、暑いの?

京成佐倉駅を降りたら、真冬だった。靴で走る大多数だって寒さは嫌がるだろうけれど、裸足で薄っぺらいサンダルを履いていると寒さはこたえる。足裏以外は裸足だから、外気が直接、足を冷やす。でも、それ以上に辛いのは足裏。ぼくが使っているワラーチのゴムはわずか4.5mm。氷点近くだと、凍った地面の冷気が直接足裏を刺す。「走り出してしまえば関係ないけれど」と言ったのは、宿で知り合ったもうベテランのワラーチランナーのAさん。スタート前の号砲を待つまでの20分を絶えるのがこたえる。木切れを持って、待っている間だけサンダルを浮かしたい。

二日前の予報では夜のうちに雨はやみ、日中は晴れるということだった。今は寒の戻りが続いているけれど、3週間前は連日20度近くを記録して都心の歩行者もTシャツを着ている始末だった。晴れて景色が楽しめるのは嬉しいけれど、暑さ慣れしていない身体にはきついかもしれない。

前日の予報では、午前中は曇りで午後から崩れるということだった。結局、雨・曇り・晴れのいずれの条件にも対応できるような支度をした。上から、帽子、サングラス、ヘッドセット、バンダナ(防寒と鼻紙)、Tシャツ、アームウォーマー、ウィンドブレーカー、短パン、レッグウォーマー、5本指靴下。現地で調整することにした。

当日の朝、競技場ではウィンドブレーカーと靴下は預けた。気象条件への適応はうまくいったけれど、靴下を履かなかったことでレース後半に大変だった。

羊羹、ポカリ、水、栄養ジェル、塩飴、クリームパン、(焼きそば)

レース中の栄養接種については、まったく自信がない。ロングランの練習のお供の井村屋のスポーツ羊羹2個をメインに、アルペングループから取り寄せた amino Vital のマラソン完走セット、暑くなった場合に備えた塩飴と男梅グミを2個ずつ。前回の富士山マラソンでは、だれかのブログを見てアミノサウルスにしたのだけど、胸焼けする感じで、今回は、そのとき無料配布された amino Vital。

以下のように摂食時期と予定して、だいたいその通りにモグモグした。

  1. スタート30分前: amino VITAL パーフェクトエネルギー 5000mg と amino VITAL アミノ酸 3600mg

  2. 5km: 羊羹半分

  3. 10km: 残った半分の羊羹

  4. 15km: 2番目の羊羹半分

  5. 20km: 残った半分の羊羹と塩飴

  6. 22km: amino VITAL パーフェクトエネルギー 2500mg

  7. 32km: amino VITAL PRO 3800mg

パーフェクトエネルギーとアミノ酸はいける味だったけれど、PRO は我慢できる程度。

水分はほとんどの吸水ポイントでポカリスエットをいただいた。普段は清涼飲料水は飲まないのだけど、混ぜ物があった方が筋肉が攣らないかと思って。それでも後半、ぼーっと水を取ったのが一回、amino VITAL PRO がへばりついた口中をゆすぐために敢えて水を選んだのが一回。基本的には水の方が好き。

ゴールして脚を引き摺っていると、子供達が無料の軽食を勧めてくれた。

「どれでも2個までどうぞ!」

という声に、餡パンとクリームパンに魅かれたのだけど、ついクリームパン1個に遠慮してしまった。おいしかった。

スタジアムの外には屋台がたくさん並んでいた。9時半にスタートして、ゴールしたのが午後1時半ごろだから空腹でもよさそうなものだけれど、走りながらたっぷり甘いものを接種したせいかさほど空腹は感じていなかった。前の晩に世話になった宿の人が豚汁の屋台を出しているとのことだったけれど、すぐには見つけられなかった。

「パック済みの焼きそば半額」を貼り出した店の前は長蛇の列だったけれど、その隣の500円の焼きそばの前には並ばずに買えそうだった。現金があればね。キャッシュレスは対応してないって。ガックリ。レースを走るときも2,000円くらいは所持すべきだった。これも勉強。

ゆかいな人たち

お金を払って、遠くまで来てレースに参加するからには、参加者にはそれぞれの目標があるに違いない。それは個人記録や目標の記録を越えることかもしれないし、友人との親睦を深めることかもしれないし、行ったことのない場所を訪れることかもしれない。

ぼくが初マラソンに出走したときは友人との親睦に加えて、マラソン大会というものを体験して、完走後の人生観の変化を期待した。今回の佐倉マラソンに参加申込みしたときの密かな目標はワラーチでのサブ4だった。年が明けて仕事が激増したため、この時期としては練習量が一気に減ってしまった。時間についての目標は難しくなったので、またニコニコゴールを目指すことになった。

こういう平凡な人とは少しずれたところに目標を設定しているように見える参加者もポツポツいる。驚きの大きかった順に思い返すと、

ほとんど裸足の人たち

ほんのわずかだけどほとんど裸足で走る人がいる。ワラーチランナー5名とサンダルのランナー1名を見つけた。ぼくも新米ワラーチランナーだ。

Aさんとは宿で出会い、意気投合して、競技場まで同道しながら、たっぷりと「変態」の生態について語り合った。

ほかにマンサンダルを履いた群青のシャツの人。彼とは10km付近から何度か抜きつ抜かれつして、40km 付近で挨拶をした。最初に見つけてすぐに声をかけて仲良くなればよいのに、苦しくなってこないと声をかけられないのはなぜ?

ゴールしてから同類3名を発見。ゴール後に出迎えて下さったAさんから聞いた「女装してショッキングピンクの長靴下を履いた」ワラーチランナー1名とノーマル型のワラーチランナーとサンダルランナーが1名ずつ。Aさんによればこのワラーチランナーはかなり速かったらしい。サンダルは最近ブームだという台湾の人かもしれない。

下駄は見かけなかった。来年は下駄で挑戦できるかな?

赤レンジャー

8km 付近で京成線沿いに走っているときタイムキーパーの大名行列の後方に着いていた。混雑していて嫌だったのだけど、道幅が狭いし混んでいるから追い越しは難しかった。

そこをスルスルと抜けていった赤い影があった。さすがは全身赤タイツのヒーローのアカレンジャー!面をよく見てないから、ぼくの知らない最近の戦隊物のリーダー格かもしれないけれど。でも、スパイダーマンでは決してない。

背中に白い布が貼ってあってあるのは小学生の体操着を思わせるけれど、書かれていた「思いっきり楽しむことが目標」みたいな言葉には強く同意する。思いっきり楽しむよ!ありがとうアカレンジャー(みたいな人)!

白鳥

この人とはペースが合っていて、10km 付近から 35km 付近まで彼の 50 メートルくらい後を走り続けていた。帽子の代わりに白鳥の首と白鳥の湖のスカートのような形状の帽子を自作したみたいだ。遠くから白鳥の首が揺れるのがよく見えて、ぼくの視界にはいつも白鳥がいた。

白鳥は水鳥だけにゆっくりと水を飲む。距離が離れたかなと思った頃に給水所にたどり着くと、いつのまにかそこには白鳥がいて、ぼくが近づくと飛び立って距離を作られる。こうしたことが20キロばかり続いた。ぼくの脚がそのままずっと元気だったなら、ゴールゲートでの彼の舞が見られたかもしれない。

ウクレレ

その人はスタート位置でぼくと隣り合わせになった三人組の一人だ。普通のランシャツにランパンに普通のランシューズ。でも彼が抱えていたものはその場におよそ相応しくない。 「ウクレレ?」 ここで話しかけなければ、チャンスを逸するに違いない。 「走りながら、演奏するんですか?」 ナイススマイルが返事だった。 「すごいですね」 「マンサンのあなたに言われたくないよ!」 お仲間の一人が答えた。 近づいてみると、ウクレレの首に小さな紙束が固定されていた。 「それは?」 その顔はよくぞ聞いてくれたと語っていた。 「走ってるとさあ、忘れちゃうんだよね。歌詞の束なんだ」 ぽろん、ぽろん。優しい音を紡いでくれた。スタートしてすぐにウクレレとははぐれてしまった。のんびりゴールしたんだろうな。

力を下さった人たち

富士山マラソンではほかのランナーと語らったり、妻から応援の電話がかかったりと賑やかなレースだったけれど、今回は終始無言で走っていた。サブ4に最適と思われる位置にいたから周囲のランナーたちも記録を目指して遊ぶ余裕がなかったのかもしれない。そんなことから、もっぱらTシャツの柄から勝手に力をいただいた。

小出監督

筆頭は小出監督を祈念した第39回大会のシャツ。背中に穏やかな笑顔を見せるお顔から 「よし、その調子。足を動かすんだよ。」 と言葉をかけられているような錯覚があって、そのシャツを着ているほど良いペースの人を見つけると、つい引き寄せられた。あのTシャツ、手にはいらないかな。

埼玉マラソンの人たち

埼玉マラソンは先月開催されたの?白地に赤と黄色と青と黒の現代美術的な模様のシャツは美しかった。あのシャツのために走る気持ちはよくわかる。若かったとき、現代美術というものがしっくりとこなかったのだけど、あるとき 「こんながらのハンカチがあったら身につけたいかな?」 と発想して、コンマリじゃないけれど「ピピッときた作品は好きだ」ということにしたら、すっかり現代美術を眺めるのが楽しくなった。その感覚でいえば、埼玉マラソンのTシャツのピピッときたんだ。

坂の上の幼な子

沿道の応援の人々に大感謝!弾けんばかりの笑顔の「ナイスラーン」にさほどナイスじゃなくても背筋が伸びたし、少しばかりピッチも上がった。スパイダーマンもピカチュウもなんだかわからない人も、わけわからずにお母さんと声を張り上げているお子さんも、家から小さな椅子を出してきて旗を振ってくれたご老人も、みんなみんなありがとう。

あれは京成佐倉駅からの線路沿いだったと思う。沿道から大きな百姓家の門に向かうちょっとした坂道の上に椅子に腰掛けた老人が膝に座らせた孫と思われる幼児の両手をバタバタさせて応援してくれてた。身体いっぱいの応援にこちらも両手を頭上に大きく振って応えた。

佐倉のみなさん本当にありがとうございました。また来年会いましょう!

役員

どの曲がり角にも、決まって腕章をつけた大会役員が整理にあたり、応援してくださっていた。紅白の手旗を振る人もいれば、にっこりと笑いかける人、声をかけてくれる人もいる。 「心は熱く、頭は冷静に」 とは、医療チームの女医さんだった。 「30キロだぞ。あともう一息!」 には、肩の力が抜けたけれども、まもなく29キロの標識を見て腰から力が抜けた。 ひときわ野太い声が 「よーし、いい調子だ。脚は動いてるぞ。まだまだいける。頑張れよ!」。これは小出監督の声かと自らを叱咤した。さすがは監督が育んだランニングの街だ。応援の質が違う。

レース

スタートからの5キロ (28:09, 5:38 /km, 125-159 bpm)

レースに申し込んだ時の目標はサブ4だった。富士山マラソンの結果は4:25くらいだったけれど、激坂で足を潰してしまい5分近く止まったものの、最後の10キロは元気にペースアップできたから相当な短縮ができそうな気がしたし、サブ4は夢の夢というほどのものでないと思っていた。


丘の上の運動場から緩やかな坂を下って佐原駅に向うところ。混雑してますが、道幅が広いから走りやすかったです。

ところが年が変わってからひどく忙しくしかった。まるで練習ができていなかったため、練習も低心拍数練習に限定せざるを得なかった。だから、当初のサブ4の目標はやや現実味を失ったことを認めざるを得なかった。

佐倉マラソンはスタート位置を目標時間を基準とした選手各々がその日の調子に応じて自主的に決めることができる。宿から一緒にやってきた仲間はAさんは4:00のペースランナーの前に、調子が良ければぼくより早いはずだけど、膝の怪我に悩まされているCongさんは5:00あたりに向かったらしい。ぼくは4:00のペースランナーの少し後ろに位置したつもりが、実は4:15なペースランナーの後ろにいたらしい。ウクレレさんの隣で。

9:30に号砲。しばらく歩いて、スタートゲートを潜る頃にようやく走り始める。混雑しているものの、道が広いから、走りやすい。

コースマップとコース紹介のビデオを見て、全体に真っ平らなコースと思ったのは思い違いだったようだ。競技場はあたかも城のように高い石垣の上に位置し、競技場から出ると緩やかに蛇行する坂を下る。そのあと同じような勾配の登り下りが続き、「おいおい、まだ続くのか?」とぼやきたくなったころ、なだらかな下り坂の先に京成佐倉駅が見える。駅からは線路沿いの平らな道に出る。

一本目のスポーツ羊羹を半分消費。

5K-10K 線路沿い (26:41, 5:20 /km, 154-161 bpm)

京成佐倉駅間での広い道に比べ、線路沿いは狭い。ときどき肘や肩がぶつかる。一週間前の下駄の練習会で Cong さんに指摘されたんだけど、ペースが遅いときのぼくは腕をだらりとおろし、なるべく上半身を脱力するようにしている。だから混雑したところでは、周囲の選手にはありがたい存在かもしれない。逆に肘を横に張るフォームの人は油断すると肘打ちを喰らうから叶わない。

混雑のなか少しずつ順位を上げていくうちに混雑がいよいよひどくなってきた。少し前を見れば、頭に黄色い風船をつけた人が二人いる。ペースランナーたちだ。彼らの両脇をガッチリと選手が抑えて道幅いっぱいになっている。その後ろの人たちはそれ以上前に出ることができない。ペースランナーの少し前には広々としたスペースでゆったりと走る人たちがいる。ああ、あそこに行きたい!

線路沿いをいく間は、接触を避けて怪我をしないこと、ペースを守って周囲の人に無駄なストレスをかけないことだけを考えて淡々と走った。気疲れする。

一本目のスポーツ羊羹の残りを完食。

10-15キロ 農道 (26:54, 5:23 /km, 157-161 bpm)

線路沿いから農道にでたものの相変わらず同じ程度に道は狭い。線路沿いと違ってときどき角を曲がる。アウト側を利用してスルスルと前の方に位置を取り、何度か目の曲がり角でやっとペースランナーの前に出られた。

朝の山手線から吐き出されたような気分。嘘のように混雑から逃れ、周りのペースにとらわれずに自分のペースで走れるようになった。周囲の人たちとペースが合っていたのだろう。ようやく自分のペースを見つけた感じだった。

昨年の5月以来 Maffetone 方式の低心拍数練習のみに勤しんできた。年齢と健康状態に鑑み運動強度を心拍数帯で制限する手法だ。58歳で二年以上大きな怪我をしていないものは 117-127 の心拍数帯での練習をすることになる。同じくらいの年齢の人は試してみると良いけれど、この心拍数だと恥ずかしくなるほど遅いペースでしか走れない。心拍数を目標にするから、普段はウォッチフェースには心拍数と走行時間だけを表示してペースは表示していない。

慣れないうちはそもそも走ることさえできないかもしれない。でも、練習を続ければ徐々にペースを上げられるようになる。半年の練習でぼくは 6:15/km で走れるようになった。

もちろんレースは別だ。呼吸の乱れと相談しながら普段よりずっと早いペースで走る。たとえば先月の青梅マラソン10Kでは 5:30/km のペースだった。履き物は下駄だったけど。

自分の適正ペースというものがわかっていないものだから、レースになっても相談相手はペースではなく心拍数。この日は 32K までは 145-155、そこから上げていく計画だった。実際の心拍数は概ね 155 拍、ある程度の余裕でサブ 4 が狙えるペースで、鼻呼吸も楽だった。

あとは脚。なにしろ練習不足。とくに今年に入って一度も20K を走っていないのは不安。

もう一つの不安が足。少し調子に乗って、その日は裸足でワラーチを履いていた。冬のあいだはずっと靴下履きだったのに。

そして、それはやってきた。あの痛みだ。左足の母指球にしわができ、そこが痛み出した。たぶん着地でわずかに足を左に滑らせる癖があるのだろう。足裏の皮がたわんだところに体重が乗りまめができていくんじゃないかと思う。軽い痛みだけれども、これは何度も経験したから知ってる。最後まで大人しくしててくれ。

2本目のスポーツ羊羹を半分消費。

15-20 キロ (27:51, 5:34 /km, 152-160 bpm)

前半は森のなかを、後半は印旛沼から流れる河を渡ったり、別の河に沿って走ったり。景色が変化に乏しいため、このあたりは眠けを誘う。印旛沼のそばを走っているはずなんだけど、沼はあまり見えず、対岸を行くもっと速いランナーたちが見えたり、500メートルくらい遅れたあたりに 4:00 のペースランナーが見えた。

「この調子なら、もしかしてサブ4?」

鼻呼吸は安定し、足裏がすこし痛むほかは大きな支障はない。心拍数を上げすぎないことに気をつけながら、淡々と走る。

2本目のスポーツ羊羹の残りと塩飴を完食。

20-25 キロ (28:07, 5:37 /km, 153-155 bpm), 25-30 キロ (28:15, 5:39 /km, 155-159 bpm)

印旛沼をぐるりと巡る。でも、相変わらず沼はあまり見えない。鵜のような水鳥が見えたり、大きな魚がジャンプする様子を目にした。気が遠くなるようなのどかな風景のなか、地道に歩みを進める。今年にはいってから 15 キロ以上走ったのは 3月3日と 3月13日 にそれぞれ 15.04キロ、16.48キロ走っただけで、ほかは長くても 10キロ程度だったから、20キロ過ぎは正直不安。

無理しない、無理しない。ひたすらニコニコフィニッシュを目指す。

22 キロ地点で amino VITAL パーフェクトエネルギー 2500mg を接種。

30-35 キロ (30:39, 6:08 /km, 152-158 bpm)


幕末に佐原順天堂が今の順天堂大学の祖と聞いています。たしか、シーボルトの娘から学んだ目薬の調合を学んだ蘭学医が始めたんじゃなかったかな。それに因んでオランダとの交流が続いているようです。オランダ風の風車の周辺はチューリップ畑になっていて、大会の二週間後くらいに開花したようです。

このすこし前あたりから、背後に何人かの集団ができているようだった。ぼくのすぐ後には、息が荒くて、ときどき咳払いする人がいてすこし気になった。30キロ地点すぎの竜神橋の手前でコースは急に左に折れ、短いけれども、坂になっている。

「こういうのが地味に効いてくるんですよ」

息の荒い人が並びかけて、話しかけてきた。下駄練の成果でこの日は登りはうまい具合に克服していたように思う。でも、急な方向転換はちょっとつらい。ワラーチにはアッパーがないから。

「そうですね。きついですね。」

と同調しておいた。

「いいペースで走ってますね。」 (そうか、ペースメーカーに使われていたのか!)

「いやいや、脚に来ていて、いつ止まるかわかりません」 (実際、ハムストリングの上の方で痙攣が始まりそうな様子だった)

この状況で、ワラーチについて何か聞いてきてもよさそうなのに、そちらに話題は出ず、そこからは併走した。

32 キロ地点で、amino VITAL PRO 3800mg を接種。

35-40 キロ (31:04, 6:13 /km, 144-152 bpm)

36キロ付近のエイドのあたりで紺のシャツを来たワラーチの人を抜いた。でも、そのすぐあとついに痙攣が始まった。併走していた人は驚いただろう。さっきまで一緒に走っていたのに、エイドで突然、姿が見えなくなるのだから。

ぐっとペースを落として我慢のランをしていると、ザッザッという靴音が聞こえる。なんだか、すごい勢いでつぎつぎに抜かれていく。 (若い人たちは元気だなぁ) ぜんぜんついていけないけれど、富士山マラソンではぼくも元気で最後の5キロは牛蒡抜きしてたから、コンディショニングは大切。

それにしても、何かに追われるように走っていくランナーが増えていないか?そして、この「ドッドッドッ」という靴音はなんなの?まるで軍隊みたいじゃない?

振り返ったところに頭に黄色い風船をつけたペースランナーがいた。 (キャーッ) 捕食者から逃げる小魚のように慌ててペースを上げたものの、ハムストリングは休みたいと叫ぶ。諦めて、ペースランナーがひっぱる集団をやりすごし、そこでストレッチ。二分くらい休憩しただろうか。富士山マラソンではストレッチのあとで奇跡のように筋肉が復活したけれども、二度目の奇跡には恵まれず、どんどん離れていくペースランナーを見送りながら6分台にまで落ちたペースを刻んだ。


40キロ地点のあたり。頭のなかで1キロずつ刻みながら、淡々と我慢の走りです。足についているのは、背番号が記録された IC タグ。コース上に設置されているセンサーが背番号を読み取って、5km ごとの通過時刻を記録してくれます。

このあたりでようやく気づいたのだけれども、行きにあって終始恐れていたアップダウンは帰り道にはなかった。ちゃんと地図を頭にいれておくべきだね。

ゴーーール!!! (142-148 bpm)

最後の交差点を右に折れるとスタジアムが見えた。行きに下った最後の坂が帰りにはひどくきついとは聞いていたけれども、あと 500メートルと思えば耐えられる。スタジアムのゲートを潜るとすこしばかりの直線があって、そこはがんばった。でも脚はついてこないから、心拍もたいして上がってなかったけれど。身体的にはそうなんだけど、自分の認識として精一杯最後の力を絞り出せた。やるだけのことはやった。


ゴールラインを越えてニコニコしているのだけど、このあと呼び止められた救護所に連れていかれました。あとで思い返すと、たっぷりと水を飲んでストレッチした方がよかったんじゃないかな。でも、親切に感謝してます。経口補水液をグビグビ飲んだから、脱水だったのは確実です。塩分も足りてなかったのかも。

公式カメラマンに笑顔を向けていたら、スタッフの大学生に呼び止められた。

「足から血が出てますよ。救護テントに行きましょう。」

(あっ、本当だ)

「車椅子に乗りますか?」

(いやいや、さっきまで6分台で走ってたんだから…)丁重にお断りして、テントまで向うと医師と二人の看護師が出迎えてくれた。ほかにも数人のランナーがいて、サロンパスらしきものを貼ってもらっていた。

「あぁ、これはひどい」 「まずは洗浄ですね」 「(レッグウォーマーを脱がしながら)皮膚が破れるかもしれないから、慎重に」 「消毒しましょうか」 「お風呂にはいったら痛みそう」

などと、こちらが不安になるようなことを口々におっしゃる。思わず「重症なんですか?」と訊ねると。

「ちょっとひどいですね」

(そこまでひどいのか?)

絆創膏をいくつか貼ったうえから包帯で覆ってくれて治療は完了。いざ歩こうとすると、ひどい痛みで歩幅が普段の半分くらいになってしまった。ヨタヨタと歩きながら、最後のエイドでクリームパンをいただき、荷物を受け取るべく野球場を目指して蝸牛のように歩んだ。

後日談

バス、京成線、JR、東急を乗り継ぎ、ふだんは使わないシルバーシートと駅のエレベータのお世話になってようやく帰宅した。意気揚々と戻った富士山マラソンとは別人のような帰還となった。

妻が用意してくれた風呂の縁に両足をかけた不自然な体勢でゆっくりとお湯につかり、それなりにさっぱりした。でも、医者たちの言葉が怖くて足裏を確認する勇気が出なかった。

足の包帯を外して、足裏を確認したのは翌日の午後だった。

(きたない!)

足裏には木の葉屑がたくさん貼り付いていた。濡れ雑巾で除去すると「で、怪我はどこ?」左足の小指は水膨れで大きく膨れあがっていたから、焼いた針で潰してバンドエイドで保護した。右足の縁は医者がつけてくれたバンドエイドを新しくした。でも、ほかのバンドエイドや包帯が覆っていた場所はきれいなものだった。医者たちは木の葉屑を無数の傷と見間違えたんだろうか?

(じゃ、なんで歩けないの?)

それは筋肉痛。度を越えた筋肉痛というものは、筋肉痛と意識することも難しいらしい。二日目になってようやくそのことに気づいて、血液の循環を高めるために 100UP をしておいたら翌日には収まった。ゴール直後にストレッチと軽い運動をしておけばよかった。

レースから二日目には回復して、普通に歩けるようになった。

記録 (総合順位 1462位 / 4415人、40歳〜59歳男子の部で 880位 / 2301人)

この日はたくさんの個人記録が出ました。以下、前回の富士山マラソンとの比較(ネットタイム)です。

  • フルマラソン: 4時間05分32秒 ← 4時間34分03秒

  • 30K: 2時間48分50秒 ← 3時間15分57秒

  • ハーフ: 1時間58分31秒 ← 2時間15分26秒

  • 20K: 1時間52分11秒 ← 2時間08分50秒 など、

こうしてみると数字の上では、かなり頑張った感じだけれども、個人的にはまだまだいけるという感覚。

今回の収穫は、息がまったく上がらなかったこと。楽に走っててもサブ4のペースになることがわかったのは嬉しい。無理にペースを上げなくてもサブ4は出るみたい。ぼくにとっての本当のチャレンジは 3時間30分なんでしょう。

反省点は筋肉の痙攣とレース後の筋肉痛、そして足の水膨れ。痙攣と筋肉痛は同根なんでしょうね。もしかしたら水膨れも?半年くらい修行して出直してきます。

さて次はどうしよう?

  • ワラーチでサブ4

  • ippon blade でフルマラソンの完走

  • 60K

当面の目標は 100K を気持ちよく走ってケロっとしてられること。

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