「懐く」
友人の麻衣子さんから聞いた話。
麻衣子さんの実家は昔ながらの平屋だったが、ある年に起きた地震で一部が壊れてしまったのを機に建て直したという。
完成したのは近代的な木造の2階建てで、明るく開放的なった自宅には心が湧く思いがしていた。
彼女の家には、数年前父が連れてきた猫が一匹いた。黒地に赤や茶の模様の入った錆虎の雄猫で、尾が曲がっていたことからカギと名前を付けていた。カギは旧宅では畳の上がお気に入りで、よく窓際で陽を浴びながら眠っていた。しかし新しい家となってからは、フローリングのつめたい床が気に入らないのか、どこか所在無さげで、家族からも離れた場所を転々としていることが多くなった。
猫は家につくって言うからね、まだ慣れないんでしょう、と家族は気にしていなかったという。
それから暫くした夏休みのことである。家には麻衣子さん以外誰もおらず、リビングでゲームをしていたそうである。ふと視界の端をカギが歩いていくのが見えた。目で追うとバスルームの方へ見えなくなった。
何気なく立ち上がり、カギのあとを追った。カギは脱衣所の洗濯機の手前でひっくり返っていた。
猫がお腹を見せて足を宙に浮かせる姿勢は、最大級のリラックスを示している。なあんだカギ、ここがお気に入りなの。少し安心して腰をおろし、お腹を撫でた。
バスルームから人の声が聞こえた気がした。鼻にかかったような独特の高い声だった。
なんだろうと耳を澄ますと、かすかに、女の鼻歌が聞こえてきたという。
照明を落とした暗い曇りガラスの向こうの浴室。その中から、弱々しく、今にも消え入りそうな物悲しい音色が聞こえている。麻衣子さんは凍りついた。
しかしカギはそうではなかった。麻衣子さんの左手に腹を預けたまま、グルグルと喉を鳴らし始めた。それは旧宅で、カギが温かい畳の部屋で安心しきって眠っているときと同じものだった。
女の鼻歌は続いている。猫は寝返りを打ち、浴室の扉へ身を預け、そしてうっとりと目を閉じた。
「カギ、駄目だよっ」弾かれたように、カギを抱えあげるとリビングに逃げ帰った。
カギは抗議するように麻衣子さんを見上げにゃあと鳴いて、再びバスルームへ向かった。
それからも度々、カギは脱衣所で喉を鳴らして時間を過ごしていた。その度、麻衣子さんは暗い浴室から鼻歌を聞いた。いつしか怖くなり、日中はバスルームとカギへ近づけなくなったそうである。
『まあ、暫くしたらカギも家に慣れたみたいだけどね』
彼女からこの話を聞いたのは、その家が建って10年ほどが過ぎた頃だった。カギは数年前、老衰で静かに亡くなった。
彼女の実家には今別の猫がいるが、あの鼻歌は一度も聞いていないという。
麻衣子さんから聞いた話。
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