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「井戸」


ある人から聞いた話。

その人の生家は中国地方某県の、坂の多い町であった。

彼の家の裏手には使われない井戸があった。セメントで固められた石積みの縁に、鋳造の手押し式のポンプが付いていた。綺麗に祖母が整備した庭の隅、梅の木に隠れるように放置されたその佇まいには、幼い頃から違和感があったという。


その辺りは酒処で有名なので、井戸水もさぞかし美味いんでしょうねと言った僕に、その井戸はね、ちょっとおかしかったんですよ。と、以下の話を聞かせてくれた。


彼がその家に住んでいた、40年ほど前のことである。 隣に、彼と同い年くらいの女の子とその両親が住んでいた。当時は珍しい一人っ子どうしの家庭で、よくお互いの家を行き来して遊んだそうである。彼女は浩子ちゃんといった。

浩子ちゃんは時折、不思議なものが見えると言って彼を怖がらせた。きみの部屋の隅には座敷童子が浮かんでいるんだよ。通学路のあの角にはお爺さんが血まみれで立っているんだよ。彼女の話のせいで小便に夜行けなくなったことは一度や二度ではなかった。

ただ、それらの話が本当のことなのか、彼にはわからなかった。テレビや本で見聞きしたような話だと思う部分もあった。

ある日のこと、庭に出ると何故か浩子ちゃんが井戸を覗き込んでいた。声をかけるも顔を上げない。ねえ、と肩を叩くと、びくりとして彼女はやっと腰を起こした。


井戸から笑い声が聞こえるよ、と浩子ちゃんは言った。またその手の話かよ、と顔をしかめた彼の襟を掴んで、ぐいと井戸に寄せた。

ほら聞こえる。と耳を立てる仕草をした。

井戸には鉄の格子がはめられていて、その遥か下の方で自分たちと空を水面に写している。ひんやりと湿った空気を耳に感じながら、彼は浩子ちゃんに倣って目を閉じてみた。

乾いた音がした気がした。水底から一定のリズムで音が反響している。段々と大きく、歪んで聴こえてきたのは、 彼には笑い声には聴こえなかった。

拍手である。


4-5人くらいの人が絶えず手を打ち鳴らす不揃いな音が、彼の耳には届いてきたという。

げっ、と彼は井戸から飛び退いた。浩子ちゃんは相変わらず、彼の反対を向いて耳を鉄格子につけている。結えたおさげ髪が錆びた格子の上で、どろりと散らばっているのが気味悪かった。


その出来事について誰かに伝えたとか、全く記憶にないそうである。以後も変わらず浩子ちゃんと遊んだ覚えがあるが、いつの間にか疎遠になり、気づいたら彼女の一家はどこかへ引っ越していたという。


十数年が経ち地元を離れた彼が、ある日父と電話したときのことである。父は物のついでのような口調で、井戸を塞ぐことにしたと告げた。


「いやあ、ここ二年くらいかな。朝起きて庭を見るとさ。時々女の子が井戸を覗いているんだよ。嘘だと思うだろ。俺も目を疑ったよ。でもな、いるんだよな。ぼんやり見えるんだ。覗いてるというか、両手を縁に置いて。耳をこう、近づけるみたいに、横向きでな。顔は見えねえんだ、 向こう向いてっから。二つ結びの髪の、後頭部が、こっちからは見えるだけなんだ。しばらくすると消えちゃうんだ よなぁ・・・・・・」

父はぼやくように言って、話題を変えた。

浩子さんの消息を確かめるべきか、彼はずっと迷っているという。


よくわからない話。



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