「おっちゃん」と呼ばれていたおじさん

 子供の頃、「おっちゃん」と呼んでいたおじさんがいた。

 「おっちゃん」は僕たちが公園で野球をしていると、歩いてやって来た。

 僕や友人の親戚なんかではない。それどころか住んでる場所も、職業も何も知らない。年齢は多分40代くらい。天然パーマで、目がドロンとしていて、口の周りに髭が生えた、謎めいた「おっちゃん」。無口な性格で、ほとんど声を聞いた記憶がないことも、おっちゃんのミステリアスな性質を強めていた。

 どうしておっちゃんは僕たちが野球をやっていることが分かるのか、誰も知らない。公園が見えるアパートに住んでいるという説もあったが、見たものはいない。その辺りを毎日ウロウロしていたのかもしれないし、おっちゃん的テレパシーで感知していたのかもしれないし、野球をしている時だけ公園で実体を得て「おっちゃん」として存在したのかもしれない。とにかく、おっちゃんは野球をしていたら現れる、それだけだった。子供が遊びに混ざる作法である「混ぜてや」も何もなく、いつの間にか守備についていたりする。かと思えば、僕たちが野球をする前から公園にいることもある。平日も休日もない。振り向けばおっちゃん、公園に行けばおっちゃん。ボロボロのグローブを持って、いつも同じジーパンとジャンパーを着ておっちゃんは現れた。

 文章にしてみると、おっちゃんは明らかに変な人な気がするが(というか変な人だったのだが)僕たちはおっちゃんの存在を、割と自然に受け入れていた。もちろん一風変わったおじさんを揶揄うようなニュアンスが無かったとはいえないが、基本的にはごく普通に仲間として迎え入れていた。単純に人が増えるのが嬉しかったからかもしれない。公園で友達と野球をする時、野球らしくなるくらい人を集めるのは結構難しいものだ。

 おっちゃんはバッターボックスには入らない。守備専門の選手だった。当時はなんとも思っていなかったが、今思えば、気を使っていたのだと思う、おっちゃんなりに。確かに、子供の野球に入ってきた職業不詳の大人がバッターボックスに入っている時間は、青少年の健全な発育を妨げるほどシュールだ。こういうバランス感覚があったからこそ、おっちゃんは僕たちに受け入れられたのだろう。そもそも子供の野球に大人が入ってきている時点でバランス感覚も何もない気もするが。

 おっちゃんは、野球好きな大人でよくある「教えたがり」というわけでも無かった。ランナー1塁になったときだけファーストの守備位置につき、自分の肩を叩いて「ここ触ったら牽制してくれ」と謎のサインプレーを試みることはことはあったが(みんな無視していた)、それ以外でプレーに口出しした記憶もない。ただ、自分がエラーをすると不機嫌になるのは少し困った。グローブを叩いて子供のように悔しがっていた。遊びの野球のエラーくらいで不機嫌になる大人の姿が奇妙で、その時だけ「やっぱりおっちゃんは変な人なんや」と思った。


 僕たちがいつまでおっちゃんと野球していたのか、はっきりとは記憶していない。僕たちが小学校高学年になり「公園」というより「グラウンド」で野球をするようになってから、おっちゃんは現れなくなった。「グラウンド」はおっちゃんの生活圏では無かったのだろう。おっちゃんのフィールドはいつまでも公園なのだ。

 中学生になった頃、おっちゃんが僕たちより年下の子供と野球をしているという情報を友人が仕入れてきた。それを聞いたとき、僕たちでなくとも良かったのかと、ほんの少しだけ寂しい気がした。世界一どうでもいい嫉妬だった。

 

 僕がおっちゃんと再会したのは高校生の時だった。その頃には、もちろん公園で野球するなんてことも無く、学校のグラウンドで「練習」するようになっていた。同期は27人いて、グラウンドには人が溢れていた。おっちゃんでなくてもバッティングをさせてもらえなかった。

 ある日、練習からの帰り道で僕はおっちゃんと再会した。僕が自転車を漕いでいると、おっちゃんは幅の広い道路の向こう側の歩道を歩いていた。30メートルほどの距離があっても、一目でそれがおっちゃんだと分かった。僕たちと野球していた時と同じジャンパーを着ていたし、顔つきもそれほど変わっていないように見えた(今思えば、子供の頃におっちゃんの顔を直視できていたのかどうか自信はないが)。なによりそのミステリアスな雰囲気は間違いなくおっちゃん固有のものだった。

 ぼんやりとおっちゃんの姿を眺めて自転車を漕いでいると、突然おっちゃんがこちらを振り向いた。目があった気がした。僕は思った。

(怖い)

 それは、現実の、目の前の人に対しては抱いたことのない感情だった。親や、野球部の監督が怖いのとは全く違う意味で「怖い」。得体がしれなくて怖い。こちらの常識が通じるのか分からなくて怖い。

(おっちゃんに気づかれたら、何されるか分からん。バレたらあかん)

 僕はまっすぐ前だけを見て自転車を漕いだ。次の交差点でまた信号に引っかかった。ふとおっちゃんの方を見ると、おっちゃんは僕が止まっているうちに追いつき、横断歩道をこちら側に渡って来る途中だった。

 (やっぱり気づかれてた)

 僕は振り向いて、来た道を自転車で戻った。逃げたと思わせてはいけない。刺激しては行けない。普通に、自然に、おっちゃんが存在しないかのように。曲がり角を曲がったところで僕は全力で漕ぎ出した。全力で漕ぐ理由ははっきりとは分からなかった。それでも、自分の行動が間違っているとは思えなかった。仕方がないのだと思った。間違っていないのに、仕方がないのに、罪悪感があった。

 家に着くまで何度も振り返った。曲がり角のたびに周囲を見渡した。おっちゃんの不在を確認するたびに安堵し、安堵するたびに胸が痛んだ。

 なぜ僕は、逃げなきゃいけないのか。

 なぜおっちゃんは、逃げられなきゃいけないのか。

 この日、大人になるということが少しわかった気がした。

 大人になるというのは、逃げるようになることだ。逃げる必要が出てくることだ。おっちゃんから。おっちゃん的なものから。

 それは少なからず悲しいことだった。取り返しがつかないことだった。

 おっちゃん、おっちゃん、野球が好きなおっちゃん。退屈すると、ボールを上に投げて自分でキャッチするだけの遊びをしていたおっちゃん。ボール探しを真剣にしてくれたおっちゃん。それでも逃げられるおっちゃん。

 この日以来、おっちゃんの姿は見ていない。罪悪感が無くなるわけではないが、元気でいて欲しいと思う。

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