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妄想京都旅行記

 新宿で京王線に乗り換えて、自宅に向かう電車に乗る。窓の外を眺めていると、ここから見える街のどこにでも住めるけど、どこにも住みたいと思わないことに気づく。そこに住む理由が広さと家賃と都心への距離以外にはない、という状況が思いの外苦しい。

 場所についてそんなことを考えていると、大学生活を過ごした京都を懐かしく思い出す。考えてみると、京都には全てがあった。住む理由があるし、京都にしかないものが、京都でなければならないものが溢れていた。京都は京都でしかない。そのくらいの存在感があった。考えれば考えるほど、京都への憧れは強まる。京都に行きたくてたまらなくなる。観光地なんかではなく、まさに学生生活を過ごしたあたりを目的もなく歩きたくなる。思い立ったからと言って、すぐに新幹線に飛び乗り、京都に行くなんてことはそうそうできない。そこで、僕は妄想で京都に行ったことにする。なんとかそれで京都への欲望(郷愁?)を満たそう。以下はその妄想京都旅行の紀行文である。

 

 8月11日午前10時、京都駅に着いた。京都駅は大きな駅だと思っていたが、毎日新宿で乗り換えていると、多少外国人が多いだけの普通の駅に見える。北側のロータリーで、学生生活を送った北東方向に進むバスに乗った。目的地は特に決めないことにする。京都の市バスはどれだけ乗っても230円なので、どっちみち大して損をすることはない。

 バスに乗ってすぐに関西を感じた。周囲の客の会話が関西弁なのはもちろん、注意したことなどなかった車内広告や窓の外を流れるチェーン店からも「ここが関西だ」と実感させられる。バスの案内が示す停留所の名前(四条烏丸、鴨川西詰…)を見るだけで安心してしまい、自分は結局「関西の人間」なのだと思い知る。

 百万遍交差点に向かってくれればまさに「大学」と言う感じなのだが(僕の中で京大の玄関は正門ではなくて百万遍にある)、バスは平安神宮が右手に見える丸太町通を東に進み、百万遍を通る東大路より一本東側の白川通に進んだ。白川通を進むと、少し面倒なことになる可能性が出てくる。東大路なら学生街の中心に向かっていくから、多少思っていたのと違う方向にバスが向かっても問題はない。北山通だとそうはいかない。少し東にズレただけで見知らぬ場所に連れて行かれる。4年も住んでいて、意外と自分の生活圏が狭かったことを実感する。当時はこの狭い場所に全てがあった。ここで完結していた。広げる必要なんか無かった。

 東京では電車に乗ればたいていの場所に行ける。免許更新やらバイト探しやらでいろんなところに行った(行く羽目になった)が、東京という場所が、全く分からないという感覚がある。東京という漠然とした地域にぼんやりと住んでいる。地図の上に自分の位置を記すことはできても、そこに住んでいる実感が乏しい。

 

 バスは白川通を北に進んだ。御影通りと交わる北白川別当の交差点で右折する気配がした。そうなると生活圏を離れることになるからボタンを押して降りる。降車後、バスは予想通り交差点を右折してさらに東へ、僕のよく知らない方向に進んだ。こういう気配を感じる能力も京都だと働く。

 涼しい車内から出ると、笑っちゃうほど暑かった。東京と京都では暑さの質が違う。東京は都心で暑さを作り出している感じがする。涼しい空間を作り出すために暑さが廃棄物として生み出される。廃棄物の暑さがさらなる冷却を求める。そうして生まれる暑さに何か歪なものを感じてしまう。京都は盆地にあるから、環境として暑いのが納得できる。地面が熱を溜め込んで、街を焼いている感じがする。人が住んでいても、住んでいなくても暑いという事実に不思議な安心感がある。所詮、住ませてもらっているだけという感覚。

 交差点に立って、そういえば、と思って信号機を見上げる。
 やっぱりここや。
 信号機の赤黄青が縦に並んでいる。北国では雪が積もらないように縦長なのだと聞いたことがあるが、京都に雪が積もった記憶は数回しかない。かつて豪雪地帯だったのか想像しようとしても、想像するには暑すぎる。こんな暑い場所に雪国の名残。盆地ゆえの寒暖差かな、と無理に理屈づけると、その暑さにも京都らしさが詰まっている気がして愛おしい気がしてくる。

 

 予定していた百万遍交差点より東側に着き、返って自分が住んでいた場所に近づくことができた。夜中、眠れない時に、散歩、と言うか、徘徊していたのがまさにこのあたりだった。もう少し北に自宅があり、白川通(今思うとこの地名は日本史の白河天皇とかと関係あるのだろうか?実際に住んでいるとそんなこと気にしなくなる)をフラフラ歩いてここまできていた。

 特に行き先もないので旧自宅に向かうことにする。白川通りをさらに北に歩くと右手に京都造形芸術大が見えてくる。芸術的な建築なのか、僕にはいまいちわからない。とりあえずデカイ建物が歩道のギリギリまで迫っているので影ができて涼しい。左手にFRESCO、生鮮館、ライフと元御用達スーパーが出現する。FRESCOは24時間営業な分だけ割高で、時間が遅くならない限りライフと生鮮館を使っていた。今では東京では絶対見ないFRESCOの方により愛着を感じてしまう。別に、東京の全てが悪いわけではないのに。


 天下一品の総本店近くの自宅に着いた。セキュリティなんてあってないような古いアパートで、部屋の鍵はその気になれば素手でも壊せる気がする。4万円ちょっとの家賃で和室とフローリングの2部屋あった。築50年は超えている。「震災(阪神淡路大震災のこと)以前の建物は、耐久性はちょっと…」と不動産家に言われたのを思い出す。一階に住む老夫婦が管理人で、毎月現金で家賃を払いに行っていた。両親がたっぷり仕送りしてくれていたのでお金はあったが、払いに行くのが面倒で滞納しがちだった僕に、嫌な顔ひとつせずに対応してくれたのを思い出した。お釣りが出ると、電卓で散々計算した挙句、「もう、にいちゃん計算してくれ」と言うのがいつものオチだった(水道料金も管理人に支払うから、やや複雑な計算だったことも言い添えておく)。簡単に誤魔化せそうだな、と思っていた。もちろんそんなことするわけないが。


 ところどころひび割れたコンクリートの階段に忍び込んだ。建物の玄関の扉が閉まっているのは見たことがない。冷房などもちろんないが、ひんやりとした階段を登って屋上にあがる。4階建(『4』階の部屋番号が50…となっているところに時代を感じる)なので大した景色が見えるわけではない。灰色のコンクリートの床に、建物の雰囲気から浮いているほど綺麗な緑色の柵(2年ほど前に塗り直された。もっと他にやるべきことがあると思った)だけの殺風景な景色。その隅に置かれたポリタンクに笑ってしまった。

 まだあるやん。

 半年前に残していった僕の私物だった。コロナでどこにもいけない時期にポリタンクに水を入れてトレーニングをしていたのだ。本来は僕が処分しなければいけないはずで、笑いごとではない。ただ、半年経っても何の違和感もなく佇む水色のポリタンクは、この建物の管理のゆるさを(誇らしげに)見せつけていた。このポリタンクだって、管理人があの老夫婦でなければ「ずさん」とか「見捨てられた」(見捨てる理由は「金にならないから」)ように感じるだろう。あの夫婦が管理している建物の屋上だと、取り残されたポリタンクが温かみを持ったものに感じられるから不思議だ。

 

 夜中、この屋上で、ラジオを聴いていたのを思い出した。

 そこは当時の僕の、唯一のオアシス、だった(今では京都全体がオアシスに思える)。唯一、何も考える必要のない場所だった。部屋の中にいても、大学にいても、どこにいても、いろんなものがうるさかった。僕の頭を支配するものばかりで、何も考えないのが難しかった。

 東京に何が欲しいか聞かれたら、僕はこの屋上を挙げる。前の住民が残したポリタンクの残る、殺風景な屋上。京都のなんでもない住宅街が、実質4階の高さから見える屋上。人が住むためには、こう言う場所が必要なのだ。

 ポリタンクのある屋上は、今の僕にとって京都そのものだった。

 太陽はそろそろ真上に来る。コロナ期間、このくらいの時間に起きていたな、と思い出す。

 腹が減った。適当に歩いてその辺の定食屋さんに入ろう。なるべく安くてうまいところ。そんな当たり前のことを思った。

 アパートを出て道路からベランダを見ると、僕が住んでいた部屋には誰かの洗濯物がかかっていた。


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