初々しさの定義

 舞台と観客席の間には膜がある。膜が破られた時、初めてその存在に気づいた。無意識のうちに出来上がっている、演者と客を区別する膜。曖昧だけど、絶対的な膜。破れて落ちた破片を見て、膜があったのだと気づいた。
 アイドルのライブの話である。その時、舞台の上にはグループの中でも若いメンバーが立っていた。僕は、彼女たちのパフォーマンスを見ながら、純粋さ、あるいは初々しさと呼ばれるものの正体は何か考えていた。その時、自分の中で、その答えが出た気がした。
 初々しさとは「共縮」のことである。
 僕はそう確信し、定義した。

 「共縮」とは筋肉のある働き方を指す用語である。
 例えば、肘を伸ばす運動をイメージして欲しい。人の体には肘を伸ばす筋肉と肘を曲げる筋肉がある。肘を伸ばす時には、肘を伸ばす筋肉だけが働けばいい。そうすれば、野球で言えば、早い球が投げられるという話になる。ところが、実際はそう簡単にはいかない。投げる時に使うのは肘を伸ばす筋肉だけでいいのに、「力を入れる意識」が強すぎて肘を曲げる筋肉まで余計に働いてしまうことがある。結果、肘を伸ばす筋肉と肘を曲げる筋肉が同時に働き(「共縮」し)、スムーズに肘を伸ばすことができなくなる。アクセルとブレーキを同時に踏んでいる感じだ。ひどい時は完全に肘が固定されて動かなくなる。
 共縮は、スポーツの世界では当然嫌われる。だから「余計な力を抜いてやれ」と指導されることになるのである。そうすれば最も効率的な方法で動くことができる。この癖を取り除くのは結構難しい。僕自身、それができない人間だった。どうしても、いらないところに力が入ってしまう。余計な力が入ってしまう。そのことが自分でも分かっている。それでも上手くいかない。スムーズに動きたい、いいプレーをしたい、そう思うほど、力んで、共縮して、プレーはぎこちなくなっていく。思い通りにならない自分の動きを、もどかしく感じていた。
 スポーツの練習では、そういう無駄なものを削ぎ落として、動きを洗練させていく。無駄のない、効率的な動きにしていく。そのためには精神的な要素も必要になる。力まない、必要以上に自分を追い込まない、それでも集中力を高めていく。勝ちたい、という思いを抑えていく、自分のすることに集中する。
 そうして、共縮は消されていく。スポーツにおいて、共縮は必ずしも悪なのである。

 日向坂46の中で年少のメンバーのパフォーマンスを見ながら感じていたことは、その論理は(特にエンターテイメントの世界で)ひっくり変える可能性があるということだった。少なくとも、あの瞬間、共縮は悪ではなかった。余計な力は、余計なものでは無かった。
 舞台上のメンバーは、多分共縮しまくっていた。ダンスについてはド素人だから全く分からないけど、彼女たちの出す雰囲気が共縮している人の持つそれだった。力んでいる人の雰囲気だった。小学校から大学までたくさんの野球選手を見てきた中で、力んでいる選手、共縮している選手(その多くはよくない結果に終わった)から感じてきた雰囲気を彼女たちはまとっていた。
 変な話なのだが、人型ロボットにあの動きをさせようとすれば、おそらく彼女たちが消費した半分くらいのエネルギーで再現できると思う。効率よく、無駄なく関節を動かせばかなり省エネできる。それくらい彼女たちのパフォーマンスには「余計な力」が溢れていた。
 スポーツの世界なら、話はここで終わる。余計な力です。無いほうがいいです。力を抜きましょう。効率的に動きましょう。それが正解です。行き止まり。
 ただ、表現の世界では、話はここで終わらない。そんなに簡単では無いのだと気付かされた。不思議なことに、人が何かを伝えようとする時、スムーズな運動を妨げる共縮が必要になる瞬間がある。「余計な力は余計である」という無意味に思えるほど自明な論理が壊れる瞬間がある。
 僕が見たものはなんだったのか、と考える。膜を破ったものは何だったのか。それは、彼女たちの共縮、力みだった。彼女たちの余計な力が、余計だからこそ膜を破った。何が余計か、何が必要かまだまだ分からないけど、分からないからこそ、とりあえず全部全力でやる。だからこそ彼女たちは力む。動きはぎこちなくなる。でも、不思議なことに、その余計な力にこそ、僕は意志を見た。伝えようとしてくれたのだと、伝わってきた。無駄な力だからこそ伝わってくる意志があった。無駄なものでしか表現できない意志があった。伝えたいという意志も全部ひっくるめて伝わってきた。

 街中で見かけた、手話で話している高校生のカップルを思い出した。僕が普段するより遥かにカロリーを使って会話していた。大変そうだったけど、その大変さが尊いのかもしれないと思った。

 その後、グループの年上のメンバーが舞台に上がった。
 僕はまだ、初々しさについて考えていた。
 初々しさは、余計な力は、余計なものが余計だと気づいたら戻ってこないのだろうか。伝えたい思いも含めて伝えるようなパフォーマンスは、「ちゃんと」踊れるようになったメンバーから失われてしまったのだろうか。彼女たちが観客と舞台の間の膜を破ることはもうないのだろうか。
 そんなことを考えながら、洗練された(されてしまった?)パフォーマンスを見ていたら、もちろん、そんなことはなかった。やっぱり、そんなことなくて、笑っちゃうくらい、そんなことなくて、ずっとメンバーは伝えようとしてくれているんだな、と当たり前のことが伝わってきた。
 余計な力を余計だと気づく、と言ったけど、全ての余計なものに気づくことなんてできないのだ。どれだけやっても、余計な力が入って、共縮して、どうしたら分からない中で、皆パフォーマンスしているのだと思った。それでもできることは全力でやろうという思いが、やっぱりどこかで共縮を生んでいるのだろう。新しいメンバーと比べると動きは素人の僕にも分かるほど洗練されていたけど、彼女たちの雰囲気は相変わらず、力みまくって打席に入って、悔しそうにベンチに帰ってくる部員の持つそれと同じだった。
 そんな余計な力が入っている雰囲気と同時に、彼女たちが余計なものを無くそうと、共縮しないようになんとかしようとしてきたことも、伝わってきた。すごく長い時間をかけて伝えようとし続けてくれたことが伝わってきた。

 
 少し変更したいことがある。初々しさは共縮である。この定義は変わらない。共縮は、観客と演者の間の膜を破って、伝えたい思いも含めて伝える。これも間違いない。
 でも、伝えたい思いも含めて伝えるのは、初々しさだけではない、というのがこの文章の結論である。膜を破るのはそれだけではない。余計な力の入っていない、共縮しないパフォーマンスも、もちろん伝えようとした思いも含めて伝えてくれるのだ。伝えようとし続けてくれたからこそ、このパフォーマンスがあるのだと思った。
 洗練されたパフォーマンスには、余分な力を無くそうとし続けてきた、長い時間が流れている(長年「力み」に苦しんできた経験として、これを失くすために費やされる時間は途方もなく長い)。舞台上に流れている時間だけではなく、それを生み出すために流れた長い時間を見逃さないように、これからもいろんなものに触れていきたいと思う。
 この文章の中で、僕は共縮しているだろうか。それならそれで、今のところは仕方がない。共縮にも、いいところはあるのだ。
 そう教えてもらった1日だった。

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