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自己紹介 : いやいや始めた仕事が天職になるまでのこと


1987年私が高校3年の10月19日に史上最大規模の世界的株価大暴落がありました。


これは世界恐慌の引き金となった1929年の下落率を大きく上回る大暴落でした。



いわゆるブラックマンデーと呼ばれているものです。



高3の秋ですから、同級生たちは希望する進路をだいたい決めていました。



しかしブラックマンデーの影響は凄まじく、親の会社が…と言って多くの同級生たちは、大きく進路変更せざるを得ない状況に陥りました。



この時、私たちは高校生というとても非力な存在で、自分の力ではどうにもならない事って世の中にはあるんだと知りました。



農学部か理学部で環境の勉強をしたかった私も他人事ではなく、親から厳しい進学条件を提示され事実上進学を諦めました。


しかし高3の秋の時点で、急な進路変更を余儀なくされたとしても、それ以外にやりたいことも見つからず途方に暮れていました。



進学はできないだろうけど、働くのもまだまだイヤだなぁというのが本音でした。



そんな時、母が理学療法士科の専門学校の資料と願書を持ってきました。



1987年当時、世間では「理学療法士」なるものはほとんど無名でしたので、私も分からないものの、まだ働かなくても良いのなら、もう少し学生をやらせてもらえるのならという思いで理学療法士科の専門学校に進学を決めました。


社会で通用しないと思った時に助けられたのは、まず家族でした。



理学療法士科のカリキュラムはとてもタイトで、忙しさに追われ気が付いた時には、卒業して病院で働いていました。



1年半ほど働いた後、こんな仕事をしたかったわけじゃないと我にかえり、仕事を辞めました。



そして環境の仕事をやっぱり諦めきれず、そんな職場を探しては面接を受け続けました。


しかし、環境の勉強をやってきた人達と同列に面接に並んでも採用されるはずもなく、食べていくため、私は失意のうちに妊婦用品の営業の補助の仕事に就きました。



外さなくても授乳できるブラジャーの説明を販売店の女性に説明しながら、男の私よりこの女性の方がきっと詳しいだろうと思ったり、倉庫でセール用のパンツをアルバイトの学生たちと袋に詰め、値札を貼り変えたりしていました。



そんな仕事をしながら、やはり今までやってきた、また勉強してきた理学療法士の仕事が、私の帰るべき場所なんだと思えるようになり、再び病院に再就職しました。



私の恩師は、優秀なパイロットとは飛行時間の長いパイロットだと言っていました。天才的なパイロットが100時間飛行するより、10,000時間飛行した並みのパイロットの方が信用を得ることができるということです。



私は親に勧められ、たまたま出会った理学療法士という仕事だけど、根気よく続けることで、信用を得られると信じることができるようになりました。



そうして毎日必死で働きましたが、いかんせん知識不足、技術不足、経験不足でした。毎日毎日理学療法士でありながら、マッサージもどきとストレッチの繰り返し。マッサージをするならマッサージ師になれば良かったし、ストレッチをするなら資格そのものが要りません。


理学療法士としての独自性を見出すことが全く出来ませんでした。



ちょうどその頃理学療法の世界では、AKAという骨盤の調整をする非常に効果の高いテクニックが流行り始めていました。


骨盤を調整するだけで肩の痛みが消えたり、予想を超える効果にとても驚きました。しかしなぜそうなるのか理屈が分からず、講師に聞いても納得いく回答を得ることができませんでした。効果のあるこのテクニックの理屈を知りたいと思った私は非常に短絡的に、骨を動かすならカイロプラクティックだと思い、もしかしたら理屈も分かるのではと考え始めていました。



そうしてカイロプラクティックを学びました。これが面白くて一気にハマりました。



社会に出るとややもすると、アッという間に1年2年と過ぎてしまいます。そして振り返ると何も成長していない自分に愕然とするのですが、カイロプラクティックは出来ない技術を覚えたり、出来なかった技術が出来るようになると自分の成長を実感することができ、とてもやり甲斐を感じました。一つ技を覚えると、まるで昇級昇段したような気分でした



もう少しカイロプラクティックを高いレベルで勉強をしたくなりました。しかし日本ではカイロプラクティックは法制化されていないため、教育制度がありません。海外のカイロプラクティック教育は、WHOが推奨している国際教育基準というものを満たしている41の大学がありました。


そこで思い切ってWHO基準の大学に進学しました。私が35歳の時でした。



40歳まで大学で勉強しました。楽ではありませんでした。結婚もしていましたし、家のローンもあります。これに現地の家賃や学費そして国民年金も払い続けました。私もアルバイトをしましたし、家内も早朝から夜遅くまで働いて力を貸してくれました。やはりこの時も家族の支えがありました。そうして5年、無事に卒業して再び医療の世界に戻ってきました。



この5年の間にとても多くのことを学びました。


カイロプラクティックだけではなく、神経の勉強、アレルギー治療の勉強、耳つぼ治療の勉強、ファンクショナルトレーニング、感情治療の勉強などなど多くの事を学びました。振り返ると私は本当に人に恵まれていたなぁと思います。沢山の人が私のために良くしてくれました。社会で通用しないと思った時に周りを見渡すと仲間がいました。



理学療法士の独自性を見出せずに悩んでいた私は、5年経ち仕事の上での「私」の独自性まで身に付ける事が出来ていました。



社会で通用しないと思い悩んでいた時に出会ったものは、営業という畑違いの仕事とカイロプラクティックという畑違いの学問でした。


そこから得られた教訓は、信用を得るために「永く続ける事」と、成長するために「学び続ける事」でした。



とにかく一言で言うと、一途にやり抜くことでした。それをサポートしてくれるのは家族と仲間でした。



家族と仲間の力を借りてやり抜くとしても、個人レベルでは息抜きが必要で、バランスを保つことが大切でした。これが自分で出来ることです。



理学療法士、カイロプラクティックの仕事は、とかく人の悪いところばかり診る仕事です。そしてほとんど外にも出ず一日中オフィスでの仕事です。



まずは運動です。一日中オフィス内でエアコンの効いた部屋で働いていますから、仕事前にジョギングをするようにしました。今では一日4~6km走ってから仕事をしています。



もう一つバランスをとるのにとても良かったものはカメラです。


人の悪いところばかり診る仕事ですから、ファインダーを覗き美しいものを探すことで心のバランスがすごく良くなったように感じます。


カメラを持ってなくても、日頃から美しいものを探したり、同じものでも角度を変えてより良い見え方を探すようになりました。



バランスを取る方法を取っていても、それでもしんどくなる時があります。


患者さんとその家族の期待が私の肩にかかるのが分かるのですが、私の力ではどうしょうもない時です。



私は奈良に住んでいますので、日常的に寺院に行きます。車で30分圏内に薬師寺、唐招提寺、興福寺、東大寺、法隆寺という名だたる寺院があります。



ある時いつものようにお参りに行くと、本当に多くの方々が手を合わせているのです。これが1300年も前から続いていると思うと、人々の「思い」というもののパワーに圧倒されました。唐招提寺の御本尊である大日如来坐像の手の中に数珠の玉があるのが最近レントゲン検査で分かりました。1300年間手を合わせに来る人々がそれを知らないとしても、鑑真和上はそれを込めたのだなぁと思うと「真心」というものの大切さを感じました。


それから私は、私に関わった患者さんのために手を合わせるようになりました。私の技術や知識が足らなくても「真心」は信じられるものだと思ったからです。


このことで私の心の荷が軽くなったのです。



今では仕事がとても楽しいです。しかし最初から楽しかったわけではありません。


天職が舞い込んでくるはずもありません。たまたま就いた仕事ですが、家族と仲間がいて、兎にも角にも続けて、求めて、手繰り寄せて、バランスを取って、真心を込めた時に本当に仕事が楽しいものになりました。

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