自分だけの本棚(Pさん)

 今日、十時頃に頼んでいた本棚が届いた。いつまでも実家の一居室を占拠している本の山にしびれを切らして何の選別もせずに送られてきた本が山のように重なっているだけで玄関先を遮断していた。本の山に少しでも秩序を与えようと、賃貸の割には天井が高いのを利用してかなり大型の本棚を、ひと月近く前にニトリで注文した。同じ本棚の他のラインナップの中でも、特に背の高いものだった。踏み台がなければ最上段に届かない。横幅は部屋の空きをしっかりとメジャーで計測していたけれども天井までの高さは正確には計っていなかったので山勘で「これくらいなら大丈夫だろう」と高をくくるにしては巨大な本棚を注文したんだけれども来てみると、天井との差はわずか五センチほどだった。前にこの本棚の七割程度の大きさの本棚を注文したときは、木材とねじがあって自分で組み立てる式のものだったから今回も組み立てる事を覚悟していたけれども運ばれたときにはもう大枠は出来ていた。水平の仕切り板を、適切な場所にダボで固定するだけだった。
 今日一日、本棚に入れるべき本の選別と著者毎のグルーピング、ついでに机の上の小物の整理などを行っていたら五時になっていた。実家から送られてきた本は特に文庫がバラバラで、まるでプログラミングの授業でよく習うソートアルゴリズムを自分でやっているような気分だった。今まで、本当に今日に至るまで、完全な形で今まで買ってきた本を全て総覧出来る形で整理するということを一切していなかったので、買ったかどうか曖昧な本を買うことが何度もあったらしく二重に買った本が何冊も出て来た。
 本を整理すると、自分の興味とその偏りが冷静な形で判断出来て、良い刺激になる。

 中原昌也の『パートタイム・デスライフ』の続きを読み、保坂和志と小島信夫の『小説修行』という往復書簡集、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』、ベケットの『モロイ』などを読んだ。
 Youtube で何かしら流しながら生活することに最近は慣れていたので、Premium に登録して、バックグラウンドで流せるようになった。ウサギさんと Youtube Premium について話した記憶があって、「あれはあえてバックグラウンド再生出来なくしていた節があり、オリジナルコンテンツもネットフリックスやアマゾンプライムとは比べものにならないくらい少ない。いまいち利点がない」という風に、どちらが言うともなく言い合っていたけれども、オフライン保存や広告の有無など、無印の Youtube を使っていると地味に邪魔に感じていたものが一気に無くなるのはやっぱり理性的なところとは別で爽快であり、金に見合うかどうかとか考えずにこのまま使い続けてしまう可能性がある。
 ライムスター宇多丸の「アフター6ジャンクション」というラジオで、最近流行の「Lo-fi Hip hop」というジャンルについて、「Youtube などのストリーミングサービス、チャット機能と密接に結びついた音楽ジャンルであり、これ無くしては生まれなかった」みたいなことを言っていたけれども、実際に「Lo-fi Hip Hop」が独立した音楽ジャンルなのかどうかは知らないけれども、これとかヴェイパーウェイヴとか言われている音楽はさもありなんという感じがする。みんな当たり障りのない、印象に残らない生活上のBGMを探している。あんまり面白かったり泣けたりすると生活に邪魔だというわけだ。ある程度懐かしいサウンド、特に何にも考えずとも聞き覚えのある音色があればそれでいいというわけだ。否定的な口調になったけれども、否定したいわけでは無いけれども、そういうのばかり聞いていて音楽を聞いた気になるのは危険だという気もする。知見が増えない。

 昔、チェーホフの短編集や永井荷風の小説と随筆を、今振り返ると熱心すぎるほど熱心に集めていた。確かに面白いという記憶はあったけれども、全作品を網羅したいと思えるほど気に入っていたのかというと、疑問が残る。
 ジョン・ケージのインタビュー集、高橋悠治のエッセイ集が、本棚を整理していて見つかった。どちらも、音楽だけじゃ無くて小説を書くときの思考のヒントみたいなものに、大いになった。ジョン・ケージの根元には、表面的ではないマジのオリエンタリズムが流れていて、中国思想の「荘子」に特にハマっていた。音楽自体が「無い」ことについて、音楽によって考えるなどといった発想は、たぶん、順調な音楽教育のみからは生まれえなかっただろう。この頃には、もう、ヤマハ音楽教室じみた順当な音楽教育なんてものは、有効では無かったけれども。いや、知りもしないのに当時の状況を知ったかのような口調は止すことにする。

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