Pさんの目がテン! Vol.6 カール・バルトを通して書評とは何かを考える 1(Pさん)
さっそく書評ではないことを考え、というか仮に極端な例を考えてみるということをしたくなって、というのも、前回扱った、ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』の別のエッセイで、こんな事が書かれていたからだ。
人間関係や道徳や性について真理と思うところを述べなければ、小説さえも書評できないのです。
(『病むことについて』、「女性にとっての職業」、107ページ)
文脈は、ヴァージニア・ウルフ自身が初めて文筆によってお金を得た書評の仕事において、仮に良妻賢母のように、男性作家に対しておべっかを使うように振舞っていたのであれば、価値のある書評は書けなかっただろう、ということだ。
思いがけず書評という単語が出てきたのに驚いた。
なんとなく、書く題材がないからといってはじめた書評モドキだけど、真面目に取り組んだら割とイバラの道なのかもしれない。
そんな大げさなことでもないのかもしれないが、少なくとも、適当なことを書いて足をすくわれるということは、あるかもしれない。読み手の誰かに、というわけではなく、自分自身として何か間違った方向に進むわけにはいかない。何げに、僕にとって、読書も重要なライフワークの一つに、かれこれ十年かもっとか、なってしまっているから。
冒頭に挙げた、極端な例というのは、たとえば、聖書について書評をするということはありえるだろうかと考えたのである。単なる思いつきではあるけれども、何らかの極論を底面として、支えにしてなにかしらやっていくということも、あるかと思う。
浮薄さをアピールしたい人の中には、あえて聖書を本当に、新聞の書評欄みたいなテイストで取り扱うということをやる人もいるのかもしれないが、僕の考えている例というのは、実例に近く、要はカール・バルトについて考えている。
カール・バルト。神学者であり、書評家では断じてない。カール・バルトの『ローマ書講解』という本を、保坂和志が『小説の自由』かその続刊で引用していたので知って、自分でも図書館で借りてみて読んだことがある。
それで、それが究極だと思ったのは、聖書という、いわば神の言葉が一言あるのに対して、バルトが十行かそれ以上講釈をするのである。これを書評に当てはめるなど、バチ当たりかもしれないが、小説の全文に対して、その十倍の量の情報を生み出していることになる。(続く)