Pさんの目がテン! Vol.5 ヴァージニア・ウルフ「病むことについて」について 3(Pさん)

(前記事 Pさんの目がテン!(仮) ヴァージニア・ウルフ「病むことについて」について 2

『病むことについて』も、その磨かれたエッセイズムみたいなものが随所に感じられて、非常に良かった。まだ全部は読んでいない。表題作「病むことについて」を読んでいるところで、テーマは、何かしら病んでいる時には普段見ている世界と別の世界が見えてくるということ、身体的(病んでつらい体)な要素を今まで文学は軽んじすぎてきており、もっぱら精神的で神的なことがらのみを追いつづけてきたというもの。ただ、どうしても語りが一箇所に留まらない。話がどんどん具象的に、別の方向にどうしても逸れる。いや、脱線しているというのではない、一つのことを言いたいのかもしれないが、思考が広い。いちどきに頭に収めている「言いたいこと」「言わんとすること」が多量で、ひとつひとつ切り取ると何について言っているのか、何を言わんとしてそのことを語っているのかがわからなくなるのである。

 そのあいだ、アリや蜂の雄々しさをもって、空がどんなに無関心であろうと、花がどんなに無視しようと、正義の人びとの軍隊は戦場へと進行する。ミセス・ジョーンズは汽車に間に合い、ミスタ・スミスは自動車を修理する。牛は搾乳のため連れ戻される。男たちが藁で屋根を葺く。犬が吠える。ミヤマガラスが網にかかったように一群となって舞い上がり、一群となって楡の木々の上に降り立つ。生存の波が飽くことなく広がる。
(ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』、「病むことについて」、82ページ

 このあたりで一回小さくつまずいた。ここがどうつながるのかといえば、日常を支える為にこうして働き回ることは、雲や花からのメッセージを断つことになり、病んで一回寝っぱなしになることは、そういうものを省みざるをえなくさせる、……という風なのだが、ウルフ風の、何喩というのか忘れたけれども、架空のものを「……は……する」と言い切るところに、ダマされる。フィクションの原動力は、わりとこの単純なイリュージョンによって成り立っているのかもしれない。他にも大きくつまずくところはあり、作家のエッセイといって想像するほどスムーズには読めないけれども、その停滞自体を楽しんで読むことが出来る。
 何よりも、読んでいると、少し賢くなったと錯覚することができる。
 今読んでいる部分で、かつて語られ過ぎた作家、作品は無意識のうちに、偉い人が既にそれについて語っているのだから、とそれについて語ることを抑圧してしまうことについて語っている部分がある。

まわりに批評ががやがやわめいていようとも、ひそかに思いきって推測し、余白に書き留めてよいのだ。誰かが以前にそう言っている、いや、もっと適切な言葉で言っていることが分かると、熱意は消えてしまうのだ。病気は、王者の崇高さに包まれて、そうしたものすべてを払いのけ、シェイクスピアと自分自身のほかは何も残さないのだ。
(同、87-88ページ)

 ここで、インフルエンザなどの病気が一時的にその抑圧を取り除いてくれると言っているのだが、この、批評家など小説を語って分析する人達との距離感というものについて、ことあるごとに触れている、長いスパンのテーマである。さっきの『私だけの部屋』でも触れていた気がするし、このエッセイ集の他の一篇である「書評について」の中でも、けっこう苛烈にこき下ろしている。
 僕が何で、改めてヴァージニア・ウルフについて語る、いとうせいこうについて語るなんていう大それたことがそういう抑圧なしに出来るのかといえば、この端々から染み出てきてしまっているバカさから来ているのだろう。

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