コロナ忘れ(Pさん)
コロナのことを忘れつつある。そして、これはけっこう広い範囲の人がそういう事態になっているんじゃないか。感動やショックという、感情的動揺というのは、年月に従って必ず減衰するものだ。フロイトじゃないけど、それに何か備給(エネルギーを注ぐようなこと)がなければ、何年も情動がそのまま残るということはない。
毎回コロナの話題で申し訳ないが、今、表面的、あるいは内面化されたコロナへの忌避、恐怖の感情というのが、集団的に薄れてきつつあるんではないかという感触がある。
目が覚めて、歯を磨くあたりで、ああ、今はいままであった日常とは違うのだ、起きて古本屋にでも出掛けて、帰りに家系ラーメンでも食って帰るということを、自然にやることが出来ないのだと、暗澹たる、しかしどこか非常時の浮き足立った気持ちを味わうという感じが、今はなくなりつつある。
本心からのショック、非日常感というのがなくなりつつある。これは、ある意味で気分的には良いことなのかもしれないが、ここで誰かが、何らかの薄い根拠を持ちつつ、「もう大丈夫になりました!」と決然と言った場合に、それにすがりついてしまうような、現実から乖離したポジティブな確信を得てしまうという危険性も、持っているような気がする。
このあたりの、人々が何となく浮いている、あるいは貯まったエネルギーのやりどころに困っているというような状況を書いたのが、古井由吉なんじゃないかと思っている。彼の書いているのを読んでいると、現実的映像の何倍も濃く、なんともいえない情動が濃い靄のように身の回りに渦巻いている、というような状況を思い浮かべる。これは、何かしら現実的な像を結ばない、あるいは退屈であるといって嫌う人もいるだろう。