Pさんの目がテン! Vol.16 長い議論好きな小説のインターナショナルな伝統について(Pさん)
最近本が思うさま読めてはおらず、あれ以来ほとんど進んでいないので、また、読みかけの本について、予測めいたものを書きつける。
同人仲間の遠藤ヒツジさんに勧められた、埴谷雄高の『死霊』と、ここで話題に出したエッセイで話題に出ていたE.M.フォースターの『ロンゲスト・ジャーニー』を、並行して読み進めている。
この二作には共通する特徴があって、とにかく登場人物が、形而上的な論議を交わすのである。
これらの大元は、ドストエフスキーの各種長編だろう。
僕は『罪と罰』を半分くらいと、『カラマゾフの兄弟』を全部、読んだだけだけれども、うわさに違わず、とにかく登場人物は議論をする、ないしは自分の思うさま独り言を発している。
音楽で言えば、例えばフィル・インみたいな展開を続けるというのがその音楽を進めるうえでのエンジンになっている音楽のように、バランスを失することによって推進する、一つのやり方なのであり、それはもはやバランスの失しではなく、いわば伝統芸みたいなものに昇華されているんであろう。
あんまり、こういう方面の小説は、自分は書く気にはならないし、進んで読むということを今までしては来なかったけれども、保坂和志が各種ドストエフスキーの小説を、とりあえずは読むべき小説として挙げていたり、今回遠藤ヒツジさんや確か、名前の一部にも取っていたと思う虚體ペンギンさんだったりが、埴谷雄高を推していたりするといった風に、尊敬していたり無関係とは思えない作家とか同人仲間がそういうものを推していたりするのを見て、とりあえずは無視できる存在ではないんだろうという、あんまりそういうことを元にして読み進めてもいけないけれども、使命感とか、義務みたいなものとして感じて、存在している。
『カラマゾフ』に関しては、やっぱり、登場人物が交わす議論というのが、小説内の議論にありがちな戯論には陥らず、そこで言っていることが、登場人物が言っているから小説として価値がある、というものからはみ出して、そこで言っていること自体が、私たちが読んでそのまま素晴らしいという風になっている。これは確か保坂和志も言っていた、なんだか議論が熱をもって白熱しすぎているからそれが現実の方にはみ出すような感じだ、つまりリアリティがある、と。
リアリティは、転じて、小説として収まるように誰かが発言していてはいけないのだ、という風に結ぶ。
それも賛否はあるだろうけれども、何というか、発散するような力がその小説の中に込められている、という点は確かだと思う。
ただし、僕は、登場人物というのがいて、それに何かを言わすという形式では、とてもそういう熱を込められうるものではない、という風に感じるのである。
埴谷雄高も、小松左京みたいに、ドストエフスキーの、なんというか、完全に文学的ではない方面においてのフォロワーという感じがする。まだ前半30ページくらいしか読めていないから、判断は差し控えるべきではあるが。
冒頭が病院だからという表面的な理由かもしれないけれども、北杜夫のアウトサイダー感にも似ているかもしれない。
E.M.フォースターについて本当は最初に書こうと思っていたのだが、これの議論は今度、七割がた読み進めた庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を思い出す。
ともかく、そういった一群の小説があるのだろう。韜晦癖というか、流暢というか、喋り過ぎというか、得意がっていることから距離を置いて、斜に構えて小説家は書いている、といったような……。ここにおいて、ドストエフスキーや埴谷雄高は違うとは思うけれども。
それに対して、読者も、どう距離を取って、どう別のスタンスを取るかというのは、当面の課題にはなりそうだ。ドストエフスキーなんて、ドストエフスキーになりたいように見える人すらいる。続編を書く人もいる。そういう距離感の人もいて、それに対してどうだというところがある。