新しいノーパソを買った(Pさん)

 先日、新しいノートパソコンを買った。
 前に買ったものはWindows 7の段階で止まっており、いつ買ったものかは忘れたけれども、五年くらいは前のものだった。別に、完全に使えないというわけではなかったけれども、いろんな面で今後の使用に不安が出てきたので、買い替えることにしたのだった。
 では、何が使えなくなる根本的原因だったのか。國分功一朗が『暇と退屈の倫理学』において、自動車会社のフォードを例にとって語っていた、資本主義を加速させる仕組みの肝と、具体的な、いわゆる「ソニータイマー」じみた機械情報技術の革新とどんな関係にあったのか。
 一番大きかったのは、ハードディスクの劣化である。あるノートパソコンを利用しているとして、継続利用して、ハードとして一番早く劣化する部分は、ファンとハードディスクだと、前に兄に教わった。
 上の兄は、PC98とかが一世を風靡していた時代に自作PCを作成していた。現在のそれぞれの部品の耐用年数と対応するかどうかはわからないが、たぶんそれほど本質的な仕組みは変わっていないと思う。
 そう、パソコンというものは、思っている何億倍も、仕組みそれ自体について、あの頃のパーソナルコンピューターから変化が見られない。PC98、あるいはPC/ATという、Windowos95、3.1を駆動可能にするコンピューターシステムの、大きく分けてRAMメモリ(一時記憶メモリ)・ハードディスク(その他)の記憶領域(長期記憶メモリ)・CPU(計算能)という黄金比みたいな部品のありかと機能について、これについては、まったく変化がないといってもいい。
 今、列挙している中で、一時的な記憶と、長期的な記憶と、それを処理する部分という構造を持っていることが、驚くほど、人間の持っている脳みそのセクションと類似していることにビビった。「まじかよすごいな」と思った。
 それはともかくとして、その後GPUだとか、サウンドボード、グラフィックボードだとか、発展はしたけれども、いわば手首の関節に骨がいくつか増えましたとかいったことで、本質的な変化ではない。
 人間の肋骨は一番奇形が多いと聞く。一本多いとか少ないとかが普通なのである。第〇肋骨という言い方はするけれどもそれがその人のどの辺の肋骨に当たるのか、またそれが本当にあるものなのかどうか、脊椎と同様には決まっていないらしい。脊椎は、本当に脳みそにつながっている頸椎から、尾骶骨につらなるギリギリまで、人による個体差はない。神経とその機能が固定化されているのだから、それは当然ともいえる。
 人間がなぜ人間に近いデバイスを作り出すのか。人間はしょせん人間の見える範囲のものしか作りえないといえる。コンピューターを構成するときに、「こいつはどう見えるか」「どう喋るか」「どう考えるか」という考え方しかできないのである。人間は仮想的にしか、光線/電波帯域のうちの全スペクトルを収めた視界というものを構成しえないのである。そのことは、グレッグ・イーガンの『ビット・プレイヤー』内に所収の「七色覚」に詳しい。人間の感覚の仕組みと頭脳の物理的な構成に思いのほか自由だと思っている人間の発想とか創発性といったものは縛られており、人間が何か作ろうと思ったときに、最も自由につくれるはずのものが、気が付いたら人間に酷似しているのである。それでこの地獄みたいな同語反復の世界を、AIが解決してくれるのかというと、なんだか絶望的である。
 話が逸れたけれども、そのようにハードとして壊れることが数年単位で予想されているハードディスク・ファンの他に、確実にソニータイマーを起動させるための、各種性能の向上とその向上がなければ対応できないソフトの開発というのがある。
 やっぱり、米アップル社のスティーブ・ジョブスが主導で行っていた、タブレット・スマートフォン革命の影響は大きかった。もうずいぶん前になる。僕はもう数年単位の時代の革新という感覚についていけず、十年前のことが新しいままなので、タブレットやスマートフォンのタッチパネルの操作感を生み出したのがつい最近の気がしている。
 あれがあったから、従来のノートパソコンを、あるいはパソコンを買うという行為が、なんというか古びてしまったというか、タブレットでやり切れないことがあった場合に買う代替的な機器というか、唯一のものであるという価値と地位がもうないと感じる。
 実はタブレット・スマートフォン・マック、iOSのファイル構造というのはやはりパソコン時代の構造と変わらないのであり、Unixからファイル制御構造をパクっていたりだとか、ファイル構造をどうラッピングするかが違うだけだったりとかするんだけれども、騙されるじゃないけれどもそのラッピングの構造が人間の見た目に対して与える効果というのは馬鹿にはならなかった。
 また話が逸れたけれども、今、定期的にパソコンを買い替えるものであるのかどうか自体が問われている。これ、Windows95を使っていた時代には全く考えられないことだった。それから、Windows2000、Vistaのあたりまでそうだった気がする。それ以降、スマートフォン・タブレットでもしできることがあるんであれば、そちらを買うに越したことはない、なにもパソコンのみで何かする必要はないという、システムに、ソフトウェアの側はなっているのである。
 だから、ハードディスクの耐用年数が不安で買い替えるということはあるけれども、それ以上にこのソフトウェア側からの圧力というのはばかにできないくらい大きい。
 今まで音楽再生ソフトとして必ず使っていたのが、Winampというものだった。これ、もう今はあるかどうかわからないくらい前の、mp3という形式が画期的な音声圧縮技術だとして風靡し始めたころの再生ソフトだったのである。
 前のパソコンを使用しているまで、このWinampというソフトを、考古学的に掘り起こして使用していたりしたのである。
 そのころは、なんというか、新しいソフトなんか使用してやるかみたいな気概みたいのが、ほかの領域も含めてみなぎっていた。だが、自分も32になって、そういうものが折れてきてしまっている。今パソコンに標準で入っているソフトでいいか。聞ければいいか。それがどんな権利関係をくぐってきたものであろうと、どんな利益構造を含んでいるものであろうと、どんなバンドルが含まれていようと、もう一向にかまわないと、そういう気分に陥りつつある。
 それで、今、CDからリッピングした数々のCDを、データを移行したついでに流しているんだけれども、久しぶりに音楽など聴くものだから沁みるものが多い。

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