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そば前会

皆さんは、「そば前」という言葉をご存じだろうか。
蕎麦屋さんで、メインのお蕎麦が来るまでの時間を指す。
私は、つい最近この言葉を知った。

一人で街をとことこ散歩している時に、ふらっとお酒を嗜む事がある。
その日も丁度、映画を観るまで時間があったので、ふらっとお蕎麦屋さんに立ち寄った。
夏の頃は特に、暖簾をくぐると風鈴の音が聞こえるようでとても風流がある。
席に座り、ざるそば、板わさ、葉生姜、国香を注文すると、厨房の方から声が聞こえる。
「あのお客さんに、そばを茹でるタイミングを聞いてきなさい」
そばを打つ大将が、店員の子に教えていた。
私はその時まで知らなかったのだが、お酒とおつまみを楽しんで、〆にそばをすするのが粋らしい。
そんでもって、そばをすするまでの時間を”そば前”といい日本人が嗜んできた文化らしいのだ。
『蕎麦屋のしきたり』藤村和夫 著には、もっと詳しく書かれている。

日本酒を飲みながら、鼻に抜ける香りを楽しむ。
葉生姜で口の中をさっぱりさせ、おつまみをつまんだり箸でひっくり返してみたり。
近くに座っているお客さんから、「若いのに通な飲み方してるねぇ」
なんて言われて、もう一杯お酒を注文したりしてしまう。
少し酔って、まわりがキラキラしてみえてくるころ――――――――
私は、おそるおそる店員さんに声をかける。
蕎麦を茹でてもらうよう伝えると、大将がにっこりと取り掛かってくれた。
蕎麦が目の前にくると、つやっつやに光った麺が絶妙なのど越しを期待させてくれる。
口に入れると、そばの風味が頭の中を包み込む。

と思ったが、一つの問題に直面した。
蕎麦を蕎麦つゆで食べるか。それとも粗塩で食べるか問題だ。本にも書かれていなかった。
果たして、どちらが〝つう″なのだろうか。
私は、今店の人からもお客さんからも通と思われている。
これははっきりと勘違いなのですが...。作法なんかどうでもよくて、いつもの私は、どん兵衛を3分待てるか待てないかの人間なのに…
店の人が丹精込めてくれた汁なのだから、これで食べるのが正当だろう。
しかし、蕎麦の香りを楽しむ為には塩が一番だと聞いたことがある気もする。
時間にするとほんの少しなのだが、私は考えた。
私はどちらの食べ方も採用する事にした。
食べた結果はどちらも美味しかった。
汁でたべると出汁の香りと蕎麦がここぞとばかりに口の中で踊っているようだし、塩は言うまでもなく。
あぁ、美味!これぞ生きてるって感じ!

箸を休め、とろっとした蕎麦湯が体を温めた。
よくわかんないけど体に良い栄養素に全身が満ちるのを感じる。タンパク質にビタミンなんちゃら..
控えめに言って最高だ。

その日は友達から飲み会に誘われた。
イカした先輩から粋な飲み方をぬすみかえす。
私は興奮冷めぬまま、熱く蕎麦前について語った。
そのまま友達の家に泊めてもらい、次の日の始発で帰った。
始発では、いろいろな物語があったのであろう。全力で夜を楽しんだ人達が疲れて、どこか颯爽な気分で車両に乗り込む。
そこに、とことん酔っ払ったおじさんが車両の床に寝転がっていた。
私は、この人このまま死ぬんじゃ?大丈夫か?
と思ったので僭越ながら、お声をかけさせていただいた。
「大丈夫ですか?どちらへ?」
そう尋ねると、おじさんは
「くないちょう……」
か細い声で、確かにそう言った。
車両に差し込む朝日が眩しかった。
愛くるしい、日いずる国ニッポンの日常である。


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kuzumiman
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