閑話休題
久々に一気に読み終えた本がありました。
高次脳機能障害を負った著者が、入院からリハビリ、回復、復帰までを
綴った闘病記です。
闘病記物だと、当事者視点のみで書かれているものや、専門分野の専門家の
経験や知見を書いているもの、家族や身内の体験などを書いたものがありますが、当事者であり、ジャーナリストである著者が、当事者視点、経験を言語化し、それを商業本として成立させているところには、ものすごいレベルの高さを感じます。
前著からの続編になるのですが、今回は、当事者視点を昇華し俯瞰して、さらに取材と知見を増やすことで中身の濃さを増やしている部分に読みごたえを感じました。
経験の言語化は、思っているよりも簡単ではなく、ただ自分の感想を言うだけでは、まさに「説教、自慢話、昔話」でしかなく、それを第三者へ伝えるためのものではありません。
商業的に「読ませる文章」というのは相当訓練しなければ書けない技術であり、もともとのセンスも十分に必要です。
これらも当事者、第三者それぞれの視点で書かれていますが、
その分野の専門家であっても「読ませる文章」の専門家ではないので、
企画や編集などを経たうえで書籍化されていますが、
感想は人それぞれですが、やはり、当事者としての視点と、第三者としての視点を合わせたうえで、それを商業ベースへと昇華させるのは、非常に難しいのがわかります。
専門家は当然、その分野の研究や知見はあります。
しかし、それは当事者ではないのです。
(当事者視点の危険性というものはあります。他人事だから正確な判断、適切な処置、最適解を導くことができる)
一番理想的なのは、専門的知見と知識を持ちつつ、第三者としての意識を確立し、当事者としての経験もあり、それを商業的文章へ昇華させ、言語化できる能力。なのですが、
そんなものを持っている人間はいません。
体験談は、ケースバイケースの1ケースであり、それを幅広く適用させることは好ましくないのも事実です。
どんなに共感を得たとしても、それはその人の人生における一場面であり、
他人の人生における一場面ではないわけですから、その1ケースを全体のケースに押し込めるのは混乱を招くだけなのも事実です。
一人の人間の人生の一場面は、その人間だけしかわからないことであり、
それを他人が理解できると思うことは傲慢以外のなにものでもありませんが、より近い位置で理解しようとすることはできます。
その手段の一つとして言語化があるわけですが、当事者の意識を言語化できる技術というのは非常に稀有なものです。しかも、ユーモアを織り交ぜることで決して重苦しいものとしないのは、やはり読ませる文章のプロです。
著者の境遇は様々な要素が組み合わさった一例ではありますが、
「理解」を促す媒体としては非常にレベルの高いものだと思います。