【you +】価値観ヒエラルキー崩壊真っ只中で「Yes,I can!」を叫ぶ
「みんな価値観が違うから全部を読むべきだと思う」
これがわたしのターニングポイントとなる言葉。そして今ではとても大切な、自分をかえりみることのできる言葉になっている。
その言葉の発端となった、わたしの中学時代の話。
田舎にある中学の、とある教室の一室。その日の議題は「少年の主張」作文のクラス代表を選出することだった。給食後の5時間目だったこともあり、教室は気だるく間延びした空気で満ちていた。
そもそも思春期真っ只中の35人が集まった教室。熱い口調で「少年の主張だって!?みんな!!本気でこの胸の内をしたためようぜ!!!世界を変えてやろうぜ!」なんて発言をするものもなく、みんなその日楽しみにしているテレビ番組のことを考えたり、好きなあの子をそっと視界に入れたり、後ろの席にこそこそ手紙を回したり…と、ただただ時計の短針がすぎていくことに受け身になっていた。
クラス代表の少年の主張作文を一つ選出するには、まず全員分の作文を全員が読了しなければいけない。すると、自分以外の34人分を読むのは大変だ、という意見が出た。それならば6人ずつくらいのグループに分かれて、6人のなかで一つ予選通過作文をまず選出し、その後その通過作文の中から最終的に代表となる作文を選べばいいのではないか、という意見がでて、時間短縮になるならという理由で満場一致で採用された。
ガタガタとめんどくさそうに自分の机の向きを変えて6人のグループに分かれ、自分の作文を差し出しグループ内で回して読み始める。しかしここでも「めんどくせー!」という投げやりな言葉が飛び交っていた。
「もうお前のでいいじゃん!」
そう言って、突然指を刺されたわたしは咄嗟にキョトンとした表情を作りながらも心の中ではこう思っていた。
「もうわたしので決まりでいいじゃん」と。
自分の作文に別段自信があったわけではない。最高の作文が書けたわけでも、特に素晴らしく訴えるべき主張があったわけでもない。それなのに、まだ誰の作文も読んでいない時点でわたしの心の中は「どうせわたしの作文で決まりなんでしょ」という、支配欲まじりの優越感に犯されていた。
つまり「わたしで決まり」という気持ちの裏側に「みんなの作文は読むに値しない」「作文の完成度は成績に比例する」「わたしの作文にしちゃえばもう時間かけなくて良いじゃん」というような自分至上主義がわたしの中にドロドロと巣食っていたのだ。
成績が上位であることに(と言っても300人中15位以内に入れるか入れないかという微妙なラインだが)自分の存在価値を見出していたので、この自分至上主義は当時のわたしのライフラインでもあった。成績が良いことと自分の存在価値を混在させていたから。成績が落ちると自分の存在に価値なんてないような気がしていた。
だから、この「お前のでいいじゃん!」発言は当時のわたしの価値観を大いに喜ばせ、ドーパミンがどばどばと放出されるに至った。
しかしここである一言が稲妻の如く脳天に直撃する。それが冒頭にある「みんな価値観が違うから全部読むべきだと思う」だった。
その一言の意味をわたしは理解できずにいた。価値観が違う?みんなの?何が違うの?ナニヲイッテイルノ?と、さっきまで放出していたドーパミンは一瞬で霧となって消え、わたしは稲妻に燻ったまま何をどのように考えればいいのかすらわからないでいた。
まさに、価値観の違う意見と遭遇した瞬間だった。
人それぞれの価値観の違いを想像したこともないわたしが新しい価値観に出会う。もうこれは未知との遭遇に他ならない。スティーブン・スピルバーグ監督がメガホンをとっていなければ今頃わたしが大作を作り上げていただろう。
そして「みんな価値観が違うから」という一言には大変な説得力があり、それまで「めんどくせー」と言えていた雰囲気を一変させた。それぞれが自分の価値観を大切にすべきなのだ、自分の価値観で選ぶ、というベクトルが働いたのだ。
その後わたしの作文がクラス代表として選出され、わたしは体育館のステージで作文を読み上げるに至るが、心の中は作文を書いていたときとは全く違ったものだった。自分の価値観が崩壊してからは、まるで空気を噛んでいるような歯触りの良い言葉が並んだだけの作文に心底吐き気がしていた。
そしてそれまでの自分至上主義価値観で書いていたときにはわからなかったことがわかった。
それなりに文章になり、それなりに優秀っぽい言葉を羅列してはいるが、わたしの作文には説得力や感動がないのだと知って愕然とした。なんとなく良い感じだけどなんとなくわかるんだけれど、なんとなく…でしかなかった。その作文に安穏として「わたしで良いじゃん」と思っていた自分に心底嫌気が差してうんざりしていた。
わたしは一体何を基準にしてきたんだろう、と。
自分の価値観を振りかざして、価値観が人の数だけあることになぜ気が付かなかったのだろう、と。
わたしが価値観の取り扱いを、ヒエラルキーのように考えていたということは逆にわたしが誰かに屈した時もあったということだ、と。
屈したその時は気が付かなかったけれど、それはわたしの価値観を蔑ろにしていたことに他ならない、と。
あの日のあの教室での「みんな価値観が違う」という一言がわたしのそれまでの考え方を一掃させた。価値観はヒエラルキーのように優劣をつけるものではないということに気が付けたお陰で、自分と自分以外の価値観を比べることがなくなったことは自分にとっても大きな救いでもあった。自分が優位なときには優越感、劣勢なときにはへりくだる、なんていうくだらない感情に振り回されることがなくなったから。
ちなみにその時のわたしの「少年の主張」はなんだったかというと『Yes,I can』がタイトルの、気持ちのもちようが人生を左右するよ、プラス思考でいこう!というようなものだった。
価値観崩壊前では気がつけなかっただろう、人に対して『できるよ!』『大丈夫!』という気持ちで素直に応援できるように変化したことは大きい。崩壊していなかったらきっとハリボテの応援でしかなかったんじゃないかと思う。
この一言がきっかけとなり、それからずっとそれまでの価値観崩壊とこの作文のタイトルがセットになって、わたしの『you +』でいてくれている。