拝啓、18歳の俺に

 木枯らしの吹きすさび、寒さが骨身にしみる季節となりました。俺、いえ、ここではあえてあなたと呼ぶことにしましょう。あなたはいかがお過ごしですか。ええ、本当にもう、体脂肪という概念のほとんど欠落した あなたにとって、寒さは比喩でも誇張でもなく、文字通り骨身にしみていることでしょう。その点については 三十歳となった俺にとっても、全く同様です。この先十年あなたに大きな体型の変化は訪れませんので、安心 して絶望してください。

 さて、目下、あなたは、大学入試という現実が近づいている事態に戦々恐々とする素振りを見せながら、内心では余裕綽々でいる頃ですね。あと一月もすれば、その表面と内実は綺麗に入れ替わりますから、束の間の余裕を楽しんでおきなさい。そうです、あなたは、今は、わりと余裕がありましたね。三年生になってから一から始めた日本史の勉強がやっと実を結び、センター試験で目安としていた点数が取れそうな感覚があり、夏の記述模試も良い成績だったので、「まあ、十中八九とは言わないまでも、十中七八くらいは受かるだろう」などと自信を備えている頃ですね。客観的なデータに基づく自信を得ることは、客観的なデータに基づく課題意識をもつのと同じくらい必要なことです。その点については、俺は何も文句は言いません。しかし、もうす ぐ返却されるであろう秋の模試では、国語で見たこともない低い偏差値を突きつけられて、あなたは採点基準に罵詈雑言を吐くことになります。それどころか、年末ごろから、これまで全く不安の無かったセンター試験の数学と国語の点数が安定しなくなり、自分の実力に対して疑心暗鬼を生ずる日々がやってきます。特に国語の点数が落ちることは、あなたにとっては恐怖そのものでしかなく、センター試験一週間前には、もう、ありとあらゆる選択肢が誤りに思えてきて、見えているはずの正解も見えなくなり、現実に視野も真っ暗になって貧血の症状を起こして倒れてしまうまでに至ります。センター三日前には、ストレスからか現実逃避からか、三十九度の高熱を出してしまいます。今思っている以上に、センターまでの残りの数十日間で、あなたは心身ともに苦労を強いられますが、そうした辛い経験も、数ヶ月も経ってしまえば、全ては笑い話に変わります。めげずに最後までがんばってください。

 あなたは、十五歳の頃に比べると幾分マシになりましたが、それでもやはり、その身体とは対照的にぶくぶくと肥大した自我意識の塊ですね。まあそれが当時のあなたの力の源泉ではありますから、いきなり恥を知れだの、慎ましくなれだのとは言いません。実際にあなたは、当時存在した十八歳の人間の中でも、かなり知的に優秀な部類に属するのは、客観的にもそう間違ったことではありませんから、そうした自分の能力に対して真っ当な自信をもつこと自体は大切なことです。ところがその一方で、あなたは自分がせいぜいそこそこ優れた人間でしか無くて、卓越した人間では決して無いということに気がついていません。いえ、正確には、とうの昔に気づいているのでしょうが、それを正面から受け止める覚悟がもてていなかったのでしょう。あなたは物心ついた頃から、自分は卓越した人間であると信じたかった。それは、あなたに限らずほとんど全ての子供の原初的な心情でしょう。自分は漫画や映画や小説の主人公のように、何か卓越した人間だと信じたかった。

 ところが年を重ね、体が大きくなり、多く物事を考えるうちに、自分がこの能力においては卓越した素質を有していないということに気づくことが増えてきます。そして何よりも、自分にそこそこ優れた素質があるということが分かれば分かるほど、その能力が、決して卓越したというほどのものではないということが分かるようになってきます。ほとんど全ての人間が(ここで「ほとんど全ての」という曖昧な修飾を打っているのは、俺自身が卓越した人間ではないからそういうしかないだけの話で、本当のところは、卓越した人間などというものは存在しないのかもしれず、ここは端的に「全ての」と書くべきであったかもしれません。しかし、そうした思考は、現に俺が、俺よりも遥かに卓越した人間というものを想像可能である以上、何ら意味を有するものではありません)、そういう風にして、自らが卓越した人間ではないということに気づいていくことになります。

 そうして自らの非卓越性に目ざめた人間は、そこで大きな選択を迫られるのです。そうです、つまり、そこそこ優れた能力に満足して生きる道と、それでもなお、卓越者にならんともがき苦しみながら生きる道の選択です。あなたは、非常に臆病なくせに尊大な人間です。だから、前者のそこそこ優れた能力に満足して生きる道を選ぶことが、何かとても大きな敗北のように思えた。躊躇いもなくその道を選ぶ周囲の人々を見て、自分はそうはなるまいと、あなたはあなたなりに必死で踏ん張ろうとしているのでしょう。ところが、踏ん張ろうとするのは意気込みだけで、実際に踏ん張ろうとすることから、いつしか逃げるようになってしまいました。当然ながら、ほとんど全ての人間は卓越した存在になれないのですから、いずれその道から逃げ出してしまうこと自体は悪くはありませんし、あなたには、それでもなお卓越しようともがき苦しむだけの気概も熱情も狂気も無いのですから、そのこと自体は、全く咎めるにあたることではありません。問題なのは、そこから逃げようとしている自分を見据えることからも逃げ出していたことです。

 あなたは、平均的な人と比べて、自分の能力を客観的に判断できる力に優れているのに、だからこそ自分が卓越したいと思う領域において決して卓越した存在では無いということを誰よりも早く自覚出来ていたというのに、そのことから目を背けたままで成人してしまいました。そうしたあなたの抱えた自己矛盾は、いつか大きな形で爆発し、あなたを大いに脅かすことになります。大いに苦しく、受け入れ難いことですが、あなたにとって、とてもとても大切な人生の岐路になります。俺はそこでやっと自分の本質を悟り、初めて真の意味で人生の選択が出来ました。本当に、大きな大きな苦しみになりますが、何とかそれを乗り越えてください。それだけ苦しい経験ですら、数ヶ月も経てば、やはり単なる笑い話に変わります。

 長々と説教臭い文章になってしまいましたね。俺ももう三十ですからね、仕方ありません。あなたのもつ元来的な上から目線属性に、人生の先輩属性までが付与されてしまうわけですから、これも詮無きこととご容赦いただければ幸いです。とはいえ、説教だけで終わるのもあまりに無粋ですから、感謝の念を少しだけ述べて拙い筆を置こうと思います。言葉を愛する姿勢をもってくれてどうもありがとう。あなたは残念なことに言葉に愛されてはいませんでしたが、それでも言葉を愛そうとし続けてくれたおかげで、俺は今でも言葉に触れながら生活することが出来ています。面白いことに、当時のあなたが見過ごしていた言葉までもが、今になって鮮やかな輝きを放つようになっています。あなたが育てた言葉への愛を少しでも人生の後輩たちに伝えていくことが、俺の現在のささやかな使命となっている気がします。本当にどうもありがとう。

 あなたの今後の益々の御活躍を心より祈っています。

 敬具



 出家したがる青年に出会うほんの少し前に書いた文章。それから7年経っても概ね同意できるのは喜びであるか悲しみであるか。




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