古参ライトお笑いファンの書く2024M1レポート①

 思春期の真っ只中にМ1が始まり、ブラマヨの、チュートリアルの、アンタッチャブルの優勝を青春の日々で目撃した俺は、М1についてどちらかというと老害的な立場であり、昨今のМ1の盛り上がりについていけない旧世代の人間の思いもよくわかる。今さら漫才か否か論争に参与するつもりはないが、マヂラブが優勝したときには割り切れない思いを抱いたものだし、やはりしゃべくり漫才の方が正統であるという規範も身に着けてしまっている。そもそも俺はバキバキの関西人だから、大阪会場から決勝に進む芸人が年々少なくなっている事実は大変悲しいし、受け入れがたいものもある。だから、「昔のМ1はよかった」という嘆息の声を、単なるノスタルジーだと切り捨てるつもりはない。


 確かに昔のМ1はよかった。

 しかし、それは、今のМ1がよくないことを意味するものではない。


 「昔のМ1はよかった」と「今のМ1はよい」は両立する。

 そして今年のМ1は、紛うことなき最高の大会の一つであった。



 


 序

 連覇の男による神引き。
 せり上がる漆黒の魔王。
 迎え入れる異様な歓声。

 約束された成功の空気を纏って「宿命」の若者は不気味に目を細める。

 「終わらせよう」

 その一言で最高の大会は幕を開けた。


 令和ロマン

 トップバッターにして一言目から会場の空気を掌握する。年間を通した盛大なフリですっかり「害悪」の権化となった王者が繰り出した1本目は、前年度と同じく「あるある」を軸とするしゃべくり漫才であった。しかし、その構造は見事なまでに対照的だった。

 交差点でぶつかる少女漫画の転校生ネタは、入り口の設定こそ「あるある」だが、そこからくるまがどんどん議論を暴走させて「そうはならんやろ」に導いていく漫才だった。

 今年は真逆だ。同年代が結婚し始めたから、自分も子供が欲しい、そして子供のために適切な苗字をつけてあげたい、という漫才の入りは、奇しくもチュートリアルが久しぶりのThe MANZAIで披露した「直孫」のネタの設定と酷似しており、ついにくるまが徳井を完全にインストールすることに成功したのかと、えもいわれぬ興奮と恐怖を感じたものだ。しかし、ネタの中身はチュートリアルのそれとは対照的なものだった。徳井が妄想を暴走させて観客を置き去りにして(福田はその観客の代弁者となり世界を支える)笑いをとっていくチュートリアルに対して、くるまは日本に生きとし生ける老若男女すべてが共感するド直球の「あるある」を放り込んでくる。真空ジェシカやママタルト、ヤーレンズのような、いわゆる「強いボケ」は全くない。ただただ素朴な「苗字と席順あるある」が矢継ぎ早に繰り出される、新鮮味も外連味けれんみもないネタではある。それなのに俺たちがああもあのネタに引き込まれて笑ってしまうのは、くるまの卓越したボディアクションと声色ゆえのことだろう。アマプラ配信のゴールデンコンビでも浮き彫りになり、野田クリスタルからも絶賛された「異常な演技力の高さ」から繰り出される鬼気迫る怪演を前に、くるまのかたる「あるある」をあたかも真実の記憶のように思い込まされるのだ。本当に「高橋からプリントを手渡された」者などほとんどおらず、「ワタナベよりもサイトウの方が苗字に厳しい」のは偏見ですらない幻想であるというのに。真実を創り出す呪力のようなものがくるまの演技には宿っている。本人はそれを技術だとのたまうだろうが。

 くるまのことばかり書いてしまったが、ツッコミのケムリも恐るべき異常者である。1本目のネタの中でケムリは一言もキラーワードを放っていない。気の利いたたとえツッコミも、感情を乗せた大声ツッコミも全くない。およそツッコミで落として笑いを取る、という思想が令和ロマンのしゃべくり漫才からは欠落しているかのようだ。勿論、これはクルマのツッコミ能力の欠落を意味するのではない。2本目の際にまた少し言及するが、漫才コントとなるとケムリは絶妙な間で状況説明ツッコミを放ち、しっかり笑いどころを演出している。ただ、1本目のしゃべくり漫才ではケムリは何故か常に少し嬉しそうな表情で、「なんでだよ!」「そんなわけねえだろ!」とテレビの前の誰でも思いつきそうな言葉を吐き続けているだけである。

 完璧なリズムを刻みながら。


 ヤーレンズ

 今大会最も歯を食いしばり地団駄を踏んだのは彼らではなかったか。ヤーレンズの五文字が笑神籤で示されたとき、会場の客もテレビの前の視聴者も、早すぎるリベンジの機会を前に期待で胸を膨らませたはずだ。だが、その膨らんだ胸を大爆発させることは、残念ながら叶わなかった。前年度に比べてネタのクオリティが低かったとは思えない。少しだけツッコミの出井がかかっているようにも見られたが、顕著なミスや空気の読み違いがあったわけでもない。ただ、あとひと笑い、ひとどよめきが足りない。

 「もっとしょーもないことを期待した」というともこの指摘が的を射ていたのかもしれない。準決勝では爆発していた「ゲーバラ」が、不発とまでは言わないがどうにも湿っている。頭を使うというほどのボケではない。ただ、頭空っぽですっと入ってくるほど分かりやすいネタでもなかったのかもしれない。ボケ自体は陳腐なもので構成された令和ロマンのネタが残した、熱気のわりにはゆるい笑いの空気がまだ会場には揺蕩たゆたっていたのかもしれない。その空気の中では「ゲーバラ」は「しょーもある」ボケであったか。

 トップバッターの直後なのに思わぬデバフをかけられる格好となった順番の不運には同情の意を禁じ得ないが、キャラが完全に知られてしまった今、「ノンストップ・ウザ」から脱却することが覇者となるためには求められているのかもしれない。楢原がいつものキャラから降りて、関西弁でべしゃり倒す日の到来を夢見るのは俺だけだろうか。



 真空ジェシカ

 全くと言っていいほど芸風は被っていないのに、4大会連続決勝出場の偉業ゆえに笑い飯と比べられることの多い彼らだが、今年はその名に恥じぬ大爆発だったと言ってよかろう。トップバッターというバフさえなければ、令和ロマンの得点を上回っていただろう。

 冒頭にも書いたが俺はギリギリ昭和生まれのバキバキの関西人で、今だってブラマヨやチュートが漫才の理想形だと思っているし、「なんでやねん」の正しい発音もわからない芸人をテレビで見ると、遺伝子に刻まれた横山やすしがムズムズうごめいて、「なんやわれケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか」と口汚い言葉を吐き出してしまいそうになる(本当に横山やすしがそんなことを言ったことがあるかどうかは知らないし、それはさしたる問題ではない)。
 おぎやはぎやポイズンガールバンドをM1で初めて見たときに、彼らを笑わないことこそが関西人としての誇りなのだと大真面目に考えていたくらいなのだから、初見真空ジェシカなど好きになれるわけがなかったのだ。おばあちゃんがハンドサインでヘルプミーのくだりに対して、「東京の大学お笑いのシャバ僧が考えそうな、知的を履き違えたいけ好かないネタである」と心の中で罵詈雑言を吐いたことを、まるで昨日のことのように覚えている(当時「大学お笑い」などという語は人口に膾炙していなかったから勿論これは幻想の誇張に過ぎない)。

 それなのに、今では「思想強めのポスター」にゲラゲラと笑い転げてしまっている。ネタはもちろんのこと、ネタ後の平場で繰り出される川北の天衣無縫もとい傍若無人なボケに翻弄されるガクの困り顔を、年末の風物詩とすら感じてしまっている。審査員は毎年「どんどんわかりやすくなって進化している」といった旨のことを言っているが、進化しているのは川北でもガクでもなく、彼らを視聴する俺たちの精神なのかもしれない。彼らが毎年出場することで、真空ジェシカの放つ漫才は決してトガッたものではなく、真空ジェシカの漫才で笑うのは痛い先鋭的なお笑いファンであることを意味しないのだ、と認識をアップデートさせられているのだろう。

 だとすれば、やはり真空ジェシカこそが、令和最新版の笑い飯であるのかもしれない。



 マユリカ

 激闘の敗者復活を駆け上がって2年連続で決勝の舞台のチケットを獲得した「気持ち悪い人たち」。敗者復活を熱心に視聴していた熱いお笑いファンの中には色々と言いたい思いがあるのかもしれない。1/21の敗者復活枠を巡る争いは、1/10を巡る決勝戦よりも熾烈なものなのだから、そのメンツに贔屓のコンビがいれば、視聴の思いに火が灯るのも至極当然のものだ。選考方法云々以前に、敗者復活という仕組み自体が原理的に人気投票的精神を含むものだ。

 すっかり人気若手芸人の一角として定着した彼らは、当然のように中谷がおばちゃんの皮を身にまとってコントインした。その安定と信頼の出だしを前に、彼らのファンは待ってましたと胸をときめかせたかもしれない。しかし、М1優勝に必要なのは凄いものを目の当たりしたという高揚と、理屈を超えて笑わされてしまう爆発である。安定と信頼は、高揚と爆発から最も離れた概念だから、マユリカの最終決戦は無さそうだなと早々に見切りをつけようとした俺に、張り手を食らわすかのような衝撃のボケが飛び込んできた。

 「うぅンコサンドイッチぃぃい!?」

 と、中谷演じるデコ美と全く同じ反応をテレビの前でしてしまった俺は、思わぬ伏兵によってもたらされた爆発に興奮を隠しきれないでいた。すごい、あんなに格好つけて令和ロマンのネタの分析とか書いちゃったのに、ここまでで一番面白かったのがこのボケだ。ひどい、親に高い学費を払ってもらってロースクールまで卒業したのに、結局うんこで涙が出るほど笑ってしまうおじさんになってしまった。悔しい、潮見佳男の苛烈なロジハラに耐えて刻苦勉励したあの青春の日々は何だったのだ。う、うんこ……サンドイッチて…………

 悔しいのでマユリカの評はここまでだ。クソ面白かった(うんこサンドイッチだけに)のにな。モーニングのたとえがイマイチハマりきらなかったのだろうか。


 ダイタク

 ついにこの日がやってきたのだ。ダイタクの漫才をこの舞台で見れる日が。そっくりの顔がせりあがってくる待望の瞬間が。ニューヨークやダンビラムーチョをはじめとする東京の若手芸人の多くもきっと同じ気持ちで画面を見つめていたのだろう。出順は正直完璧に近い。最高のタイミングで、「俺たちのダイタク」が全国にその存在を知らしめるのだ!

 後にナイツ塙は自身のYouTubeで苦言を呈したが、「伝家の宝刀」は完璧に会場客の心に突き刺さったように思う。感嘆と歓声に包まれる、考えうる限り最上のつかみだった。ネタはやはり準決と同じヒーローインタビュー。正直少しだけ複雑な思いだ。この「双子ネタの集大成」とでも言うべきネタのキャッチーさのおかげでダイタクはラストイヤーで切符を手にした。それはわかっている。それはわかっているんだ。でも、これは果たして「ダイタクの集大成」なのか……いや、でもウケはいいんじゃないか?マユリカやヤーレンズに比べて全く引けを取っていない。このウケ方で、正統な掛け合い。ひょっとして高得点が期待できるのか?いや、でも……ちょっと尻すぼみか?いやしかし、あるいは……

 悪い予感とは的中するものである。審査員の点数は伸び切らない。致し方ないのかもしれない。ヒーローインタビューのネタは、構造上爆発が起きにくい。浮気→スマホの顔認証→免許証→パスポート、と行為の悪質さは増していくのに、なりすまし自体の難度はどんどん下がっていくというねじれた構造になっている。その捻れのおかげでどんどんインタビューが簡素化していく様子が、熟練された漫才技術でテンポよく刻まれるという心地よさがこのネタの真骨頂なのだが、その性質上、どうしても強いワードは前半に集中してしまい爆発的な笑いが後半に起こりにくいのだ。加えて、免許証とパスポートの成りすましは紛うことなきガチ犯罪である。それぞれしっかりウケてはいたが、客が笑い出すその直前に刹那のドン引きが垣間見えたような気がする。

 惜しむらくは2度あった軽微なミスだろうか。ダイタクの二人と同じ九州出身の大吉先生は、低めの点数の言い訳をするかのように「完璧」「美しすぎる」などと口にしたが、立ち位置が変わっても一目で二人の区別ができる程度の俺のようなライトなダイタクファンでもすぐわかるほど、弟の拓が明らかに緊張していた。何だか終始ふわふわしていたし、2カ所甘噛みするところがあった。それが無かったところで最終決戦には残れなかったろうが、各審査員、1点ずつくらいは高かったかもしれない。そうしたら暫定ボックスに座るダイタクも見れたのに。

 ファンとしては悔しい結果だったが、二人は既に前を向いていて、THE SECONDにエントリーしたようだ。最終決戦での披露は叶わなかったが、ダイタクの「親父」が全国ネットに流れるのもそう遠い未来のことではないだろう。



 あまりに長すぎて読んでいて疲れるだろうから、TVerの放送枠に従って1本目はここまで。後半はまた後日書こう。


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