換骨奪胎俗諺落語~可愛い子には~
昔っから「可愛い子には旅をさせよ」なんてことわざがあるもんですが、これもすっかりイメージの変わっちまった言葉でございます。かわいい我が子のことを大切に思うんなら、家の中で甘やかして育てるばかっかじゃいけませんぜ。親元を離れて何事もてめえでやらなきゃなんねえ旅って場にほっぽりだして、いっぱしの人間になるための経験をさせてやるのが親心ってもんです。昔の人にとっては、旅ってのは、好奇心を満たしたり見聞を広めたりするだけでなくって、苦労や苦難のつきまとうもんだったわけです。なんせあの松尾芭蕉先生だって、しゃれこうべを野ざらしにする覚悟で旅立ったってもんだから、我が子を千尋の谷に突き落とす獅子の親心ってのが、このことわざには込められていたっつーわけですな。
ところが、現代社会ってのはすっかり事情が変わっちまいましてね。電車に飛行機、バスにタクシーと速くて便利なもんに乗っかって、それ名所でございときれいに化粧された城やら寺やら街やらに繰り出して、ぱしゃぱしゃみんなで写真を撮りまくるってなもんで、苦労やら苦難やらなんてしかつめらしさはどこへやら。野ざらし覚悟の一大決心は、高い銭を払って晴れの経験をするって贅沢三昧に成り上がっちまいました。今や「旅をさせよ」なんて言ったって、猫可愛がりの溺愛精神の具現化でしかないってわけでさあ。
いやいや、みなまで言いなさんな。今の贅沢な旅だって、可愛い子にさせる意義はあるでしょう。「綺麗な風景」、「良質のサービス」、「異文化の体験」、そういうもんに子どもを触れさせることが大切なのは今も昔も変わりゃあしません。いや、むしろ現代では大学入試のようなもんまで「独自の視点」やら「国際的な問題意識」なんてもんが求められますから、お手軽にそうしたもんに触れられる旅の重要性は今の方が増してるっていうこともできるかもしれやせん。芭蕉翁に多少詳しくても大学入試にゃ受かりませんが、安全で快適な旅行経験から得た「人生観」の変化は、推薦入試にゃうってつけときたもんだ。
とはいえ、若いうちの苦労ってのは買ってでもするもんなのもやっぱり変わりゃしません。そもそも若者ってのは古今東西問わず、「使えない最近の若者」というレッテルを上の世代から貼られちまう宿命を背負っているわけです。「老害」どもに舐められない子に育てるためにも、大事な我が子ほど苦労する経験はさせてやりたいもんでございます。
まぁ現代においても、苦労を伴う旅ってのはもちろん存在します。猿岩石が紅白の司会者をするような末の世においても、ろくに銭ももたずに親指立てて人様の車に乗せてもらって世界を回るような命知らずは依然としておるでしょうし、自転車だけで日本列島を一周しながらその様を動画に撮って見世物にする物好きだってわりとたくさんいます。とはいえ、彼らはてめえの意志でそれを行っているから賞賛されたり尊敬されたりするわけでありまして、「私は我が子を鍛えるために、夏休みにアメリカ横断ヒッチハイクの旅をさせました」などと親が発言するわけにゃあ到底いきません。そんなことすりゃもう炎上必死。やれ「児童虐待」だ「親ガチャ失敗」だのと識者気取りの凡俗どもに袋叩きにされちまいます。
旅行に連れて行ってやっても苦労はさせられず、といって本当に過酷な一人旅をさせると白い目で見られる。そんな窮屈極まりないのが現代社会だというのなら、折衷案をとるしかありません。アウフヘーベンってやつでさあ。そう、可愛い我が子に家族旅行を計画させてみてはいかがでしょう。予算はいくらか、どこへ行くのか、いつ行くのか、なんて基本的なことを決めさせて、さらには宿やら飯やら、足の手配に至るまで、全部子供に任せてやりましょう。もちろん最後のチェックは親がやりますし、身銭を切るのも親の仕事です。危険な場所にも行きやしません。現代的な安心安全旅行です。でも計画を立てて、現地で案内するのは子供の仕事。そうすりゃ子供にとって安全と苦労の両立した理想の旅が実現できるって寸法。しかも入試や就活の面接で受ける話のタネになるっておまけつき。
どうです。完璧でしょうが。
「可愛い子にはナビをさせよ」と。
おあとがよろしいようで。ご安全に。