mixiとかいうやつ
mixi
って、ミッフィーが泣きながらこちらに向かってグーで殴りかかってるように見えるよな、という手垢にまみれた冗談が飛び交っていたあの頃から15年ほどが過ぎ去って、モンストの会社としてしか認知されていなかったあのmixiに2がでたとかいうことでほんのりと話題になっている。聞けば、黎明期のmixiがそうであったように、紹介制の閉じたSNSであるようで、青春の残滓すら消えてしまいそうな壮年中年のノスタルジーを刺激している。
ゆとり世代の切り込み隊長である俺たち昭和晩年生まれは、世代の使命であるかのようにSNS童貞・処女をmixiで卒業した。年端もいかないマジンガー世代には到底想像もつかないだろうが、俺たちの多くはガラケーで原初のSNSを扱っていたのだ。あの頃の俺たちは、パカパカとケータイを開け閉めして小さな画面とにらめっこしては、我が友李徴も食わない塵芥のような日記を書いて尊大な自尊心を誇示したり、「あしあと」を残さずに他者の日記を盗み見て臆病な羞恥心を隠そうとしたりするのに必死だった。
そんな青春の汚点と汚点を詰め込んだような古のサービスのリメイクの報を受け、少なからず懐かしい思いに駆られた俺は、よせばいいのにパンドラの箱を明けてしまったのだ。頻繁なパスワードの変更を社会が推奨するのは、他者にハッキングされる危険を回避するためではなく、自己の亡霊を封印し続けるためなのかもしれない。
以下は、箱から漏れ出した災厄である。
2011年08月09日01:49
人の振り見て我が振り直せとあるように
新人たちのあんぐりな振る舞いからまあ我々も反省すべきところはあるのかもしれないですが
そもそも俺の振る舞いなんて相当あんぐりだということは重々承知しておりますが
ねえ
にしてもやっぱり流れが変わってる点は否めなくて
多分、いいこと、とか悪いこと、とかそういうのじゃないんだろうな
テストが終わってひゃっはーとラフな哲学書を読んでるくわーにゃです
最近になって思うんだけど
カントもデカルトもニーチェもハイデガーもフーコーもソクラテスもアリストテレスも……
有名所の哲人たちの考えってのは基本的にどっか自分自身の考えとダブる部分てのがほとんどであって
哲学書を読むことで何か新しいことを知るってことは殆ど無くて
今まで考えていたことに対して名前が与えられたことに対する絶望感と安心感とが入り交じった快感を得るために読むんだと思う
ああ、俺の考えてたことはすでに誰かがもう考えてたんだな
ああ、俺の考えてたことはこういう風に整理できるんだな
で、ちょっと前の頃の俺はそのうちの絶望感の方が大きかったんだけど
最近では大昔の狂人達が考えたことが、現代を生きている一般人の俺にも刷り込まれてるとはこりゃ歴史力とはすごいことだなと考えるようになってきていて
今日そのへんの感覚を鷲田先生がものすごくしっくりくる形で説明してるのを読んで承認された感じ
最近ツイッタでやたらと絡んでくるものすごく頭の悪い人と議論(になっていないということをいかにして相手に納得させるかというための議論)をしてるんだけど
やっぱり世の中には自分の思考で勝手に首をしめられている人間てのが結構いるようで
そういう人間に限って論理的な解を求めたがるようだから
最近考え続けている自分にとって都合の良いように思考プロセスを構築するっていう思考経済学ってのはひょっとすると役に立つものになるのかもなーとか夢想
その前には徹底した懐疑主義を承認してもらう必要があるんだけど
思考不経済な人ってのはそもそも懐疑論に立つことが出来ない人たちだからそこを説得するための論理か倫理かのどっちかが必要なんだよねー
普通に考えたら論理的にアプローチすべきなんだろうけど、あえて倫理的なアプローチを試みてみるのもきっと面白かろうなあと
こんなこと考えられてるのは大学で哲学勉強してないからに違いなくて
そういう意味では法学部に進んでよかったなあなどと改めて自分の道程を承認してみてるところ
どうでもよくないくらいに今日は暑かったね
何もしてないけど暑すぎて今日首やけどしたと思う
ガチで
ははーん、俺って、2011年からマルハラのそしりを受けないように配慮して文章が書けたのね。さすが法学徒。10年以上先のハラスメントを予見できるほどの先進的な人権感覚を既に身につけていたってわけよ。俺の激ウマギャグ、「口をangryさせる」の萌芽も既に見られてることから、瑞々しい感性の中にも卓越してセンスが光ってたってこった。
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あらん限りの罵詈雑言を2011年の俺に投げつけてやりたい気持ちで胸が張り裂けそうだが、読者諸兄に「いつものkuwanyaの文章であるな」などと思われている可能性を否定できない以上、何を語るのも恐ろしい。
本当に箱の底に希望は残っているのだろうか。