まだ汚れてもいないし悲しくもない
わからない言葉をわからないままでいたい。
そういう欲求だって、たまには認められてもいいはずだ。
「汚れつちまつた悲しみに」という天衣無縫の美文は、リテラシーという言葉の意味がわかる程度のリテラシーを有する全ての日本人を魅了するのであり、陳腐でチープな感性に毒されたごくありふれた標準的日本人である俺も、繊細でいて尊大な文章を前に頭を垂れた一人である。
「今日も小雪の降りかかる」
「懈怠のうちに死を夢む」
まさに自分の心裡を代弁しているのだ、と若く痛々しい精神を擽るキラーフレーズは数あるが、20年俺の心に留まり続けているのは、
「たとへば狐の革裘」
この一節である。
まったく、本当にまったく何も分からない。
汚れっちまった悲しみとどう関係するのかが分からないどころではない。そもそも狐の革裘が何であるのかすらわからない。字面からおそらくこういうものだろうと想像するのは難くないが、そうしたところで何一つとして納得感は得られない。これっぱかしも意味の分からない言葉なのだ。
それでも俺はこの文言に捕らわれて、今でも囚われている。それだけの強さというものが、このフレーズには存在している。「たとへば狐の革裘」との出会いは間違いなく俺の人生の証の一つであり、そういう人間としてあれたということは、汲めども付きぬ自尊心の水源でもある。
だからこそ、中也が「ほんとうのところ」何を言おうとしているのかを知りたい欲求もあるのだが、その欲求が満たされないでいることこそが、この経験の重要な意味であるという直感がある。ほんの少しだけ魔が指して検索窓に「たとへば狐の」と打ち込んでしまえば、馬鹿でも読めるきれいな言葉で整理されたわかりやすい解答を得られるのだろうけれど、俺はそんな人間になりたくはないのだ。
人生は長いのだから、今はまだこのわからなさに浸っていたい。わかるときが来るならば、それは体験と内省の果ての直観によってわかりたいのであって、どこかのだれかの正解でわからされたくはない。そもそもそういう正解は高校の国語の授業で教わっているはずで、受験国語の大天才である俺がその内容を全く覚えていないということは、つまりそういうことなのだ。死ぬまでなにもわからないのかもしれないけれど、それならそれでかまわない。あるいはそれを望んですらいるのかもしれない。俺は移り気な人間だから、来年の今頃には「たとへば狐の皮裘」ほど醜悪な一節はないのだと鼻息を荒くしている可能性も十分にあるけれど、そういう寄る辺のない感じにこの文言は留めておきたいのだ。
わからない言葉をわからないままでいたい。
そういう欲求がわかる(あるいはわからない)人間だけがこの文章を読めばよい。
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