掛け替えのない俺たちと欠け甲斐のない世界
ちょっと前のことになりますけれど、眼鏡の鼻あての片方が取れてしまいました。非常に些細な部品の喪失ですが、俺にとっては重大な問題でありまして、あの小さな鼻あてがなくなったことによって俺の日常生活は深刻なストレスにさらされました。あんな小さなパーツ、あろうがなかろうが、特に困らないだろうと、ええ、彼を失うその直前まではそう思っていたのですが、いざ実際に鼻あてというやつのない世界を経験してみると、まあ鼻の痛いのなんのって。痛いんですよ、これが。圧力という概念の意味するところを、文字通り肌で実感しつつ、「失くして初めてありがたみが分かる」という散々言い古された格言をぐっと噛みしめていたのであります。
それから二ヶ月あまりが経とうかという今日このごろ。俺は眼鏡を修理に出してもいなければ、新しい眼鏡に買い換えたわけでもなく、依然として鼻あての片方欠けた眼鏡を装着して日常を営んでいます。小さな鼻あて一つの修理のために、眼鏡屋に赴くという行為の意義や意味について、悶々と逡巡していた経緯についても語りたい気分ではありますけれど、日常の多忙さに負けたというか、要は面倒くさかったというか、そういう惰性の積分するところとなって今に至るということなのですが、平たく言うと、そう、俺は鼻あてのない生活に慣れてしまったのです。
鼻あてを片方失ってからの最初の一週間二週間。あのときに感じた鼻梁の痛み、あれはまさしく真実のものでありました。午前中ならいざしらず、日も沈む頃になって参りますと、ちくちくひりひりとした痛みに耐えかねて、わけもないに何度も眼鏡を外したりつけたりしていたものでした。いったいどれほどか、期限切れのコンタクトレンズを装着してやろうかと思ったことでしょう。数センチにも満たないあの樹脂のかけらがないというそれだけで、どれほど俺が苦しめられたかは筆舌に尽くしがたいものがありました。
あにはからんや、あの痛みをまるで感じない日がこんなにも早くやって来ようとは。
感覚が鈍化したというだけではありません。驚くべきことに、身体が、鼻あてのない眼鏡というものに早くも順応したのです。鼻あてを失ってしばらくは、何倍にも増幅した圧力により、一日眼鏡を装着していると、鼻柱に軽く跡がついたものですが、もはやそれもすっかりとなくなってしまいました。失った当初はあれほどその存在の大きさを感じたというのに、たかだか数十日の間に、俺にとって鼻あては、存在の痕跡すら感じられないものになってしまったのです。たかが眼鏡の鼻あて一つのことではあります。しかし、この事実は俺を慄然とさせました。何か鼻あてに変わる部品を装着したわけではありません。鼻あての欠如を改善するような画期的な眼鏡の装着方法を見出したわけでもありません。ただ、慣れた。痛覚が、触覚が、鼻あてのない眼鏡というものに馴染んでしまった。順応してしまった。
焼肉屋で牛生レバーが食べられなくなった頃のことを思い出します。生レバーは俺の好物でした。国民の健康と責任の所在との観点から、真っ当な規制であることは理解しつつも、あの風味を、もう焼肉屋で味わうことが出来なくなってしまうのかと、当時は強く失意と絶望とを覚えたものでした。
ところが今やどうでしょう。生レバーが食べられなくなっても、焼肉を食べに行く機会が激減するなどということはありませんでした、それどころか、今ではほとんど生レバーの味わいすら忘れかかっています。あれほど痛切だった思いの一片は、知らないうちにすっかり風化してしまっているのです。
これらの事実は、我々の思考や存在について、何か重大な示唆を孕んでいるような気がしてなりません。眼鏡の鼻あてと生レバーとに共通しているのは、
①それらが失くなってしまった直後に、それらの重要さを強く意識させられたこと、
②それらが有していた機能・価値は、何か別のものによって代替されたわけではないということ、
③それにもかかわらず、しばらく時間が経過すると、それらなしの生活に俺がすっかり順応してしまっていること、
にあります。
特に注目すべきは②の点であって、眼鏡の鼻あてや生レバーが有していた、こうした代替不可能性は、「掛け替えのない」という言葉で我々が日常表しているものです。いくら瑣末なことがらであっても、それと同等の価値・機能を有するものはほとんどないという意味において、「掛け替えのない」という言葉は、我々の日常生活においてまさしく文字通り機能しているといえます。
そうであるにもかかわらず、それらの喪失に、俺は知らず知らずのうちにすっかり順応してしまっています。それらを失ったときに感じたあの寂莫は紛れも無く真実のものであったというのに、その物足りなさ、いや、それどころかそれら自体の存在が、廊下の塵芥のように風吹かれて消えてしまったかのようなのです。「掛け替えのない」ものを失ったのに、そのことがちっとも響いてこない。言うなれば、それらは俺にとって、まったく「欠け甲斐のない」ものであったかのようです。
そして、この「欠け甲斐のなさ」が、ひょっとすると眼鏡の鼻あてや生レバーに限ったことではないのかもしれないというごく当然の着想を得ようとするとき、先ほど感じた慄然の思いは、いよいよ身の毛のよだつものとなるのです。
いったい俺の身の回りの物・事・者のうちで、何が「欠け甲斐のある」のであろうか。
あるいは、
いったい俺の身の回りの物・事・者にとって、俺は「欠け甲斐のある」のであろうか。
自らの周囲の存在が、そして、周囲に対する自らの存在が、「掛け替えのない」ものであることは、もはや自明なる定型句であり、果たして真実にその通りであるといえるでしょう。要素分析的な文脈であれ、認識論的な文脈であれ、この世には「掛け替えのない」ものが溢れています。
俺が俺であることの「掛け替えのなさ」も今さら誰に説かれるまでもなく、俺にとっても、また周囲の人間にとっても、自明のことであると言って良いでしょう。あるいはそれが、「掛け替えのなさ」の定義でもあるわけですから。
ところが視野をぐるりと回転させて、俺は誰かにとって、誰かは俺にとって、「欠け甲斐のある」存在であるのかとの問いに答えようとするときに、沈黙以上の模範解答を得られるでしょうか。
(いや、得られはしない)とお決まりの反語を打ち込もうとするのを必死になってくい止め、もう少しだけこのことについて考えてみようと思います。
あなたは「掛け替えのない」存在だ。あなたの代わりなんてどこにもいない。
俺たちは小さいころからそう教えられて生きて来て、無邪気にもそう信じて生きて来て、そして幸福なことにそれは真実です。世界を把握する自己意識の所在という観点から「掛け替えのない」ことは言うに及ばず、対他的な諸性質の束としての客観的な自己存在という観点からも、世の中に全く自分と同じ性質を有した人間など存在しないのですから、やはり自分は「掛け替えのない」存在です。自分が「掛け替えのない」存在であるということは、他者も当然「掛け替えのない」存在であるということですから、俺たちは、圧倒的多数の「掛け替えのない」ものに囲まれながら、「掛け替えのない」自分自身の人生を生きているということになります。
「掛け替えのなさ」は、人間にのみ当てはまるものではなく、食物や道具などの非生物にも該当します。上段で取り上げた、眼鏡の鼻あても、牛生レバーも、それと同等の機能を有する道具・食材が他には存在しない以上、やはり「掛け替えのない」存在です。ところが、そんな「掛け替えのなさ」にもかかわらず、俺たちの生活はすぐにそれらの欠けた生活に順応してしまう。不便を抱えながら、寂しさを感じながら、というわけではなく、まるで初めからそんなものがなかったかのように、俺たちはそれがない日常生活を営むようになってしまいます。他に代わりとなるものが存在しない「掛け替えのない」ものを失ったというのに、そのことが全く俺たちの生活に響いてこないというその「欠け甲斐のなさ」を目の前にして、俺は戦慄せずにはおれません。
同じく「掛け替えのない」存在である自分自身も、ひょっとすると「欠け甲斐のない」存在ではないのか。
もちろん、ここで眼鏡の鼻あてと自分自身とを、等しく「掛け替えのない」という言葉でくくっているのは、極めて乱暴な言葉の用い方であって、前者と後者の「掛け替えのなさ」は異なる性質を有しています。眼鏡の鼻あてや牛生レバーにおいて問題となっている「掛け替えのなさ」は、種類物としてのそれであって、何か具体的な固有の鼻あて・生レバーのことを「掛け替えのない」存在であるといっているのではありません。俺は今、左鼻の鼻あての欠けた眼鏡を装着していますが、眼鏡屋に赴き、新しく鼻あての部品を買うなりもらうなりすれば、その欠損は補填されるわけですから、俺の眼鏡にもともとついていた「この」鼻あてが「掛け替えのない」ものであるわけではありません。眼鏡の鼻あてというパーツ一般が破損したときに、それに代わるパーツ類が存在しないという意味で、種類物としての眼鏡の鼻あての「掛け替えのなさ」を問題としているに過ぎません。
ところが、俺という個人の「掛け替えのなさ」を問題とする場合は、まさに「この」俺の「掛け替えのなさ」が問われています。議論を単純化するために、この文章においては、自己意識の所在としての自分と対他的な諸性質の束としての自分とを区別しないこととしますが 、俺の「掛け替えのなさ」は、決して「人間」だとか「日本人」だとかいう広い種類の「掛け替えのなさ」に起因するものではなく、まさに「この」俺の存在にかかっています。
これらの違いを踏まえれば、眼鏡の鼻あてや牛生レバーが「欠け甲斐がない」のは、それらの有する「掛け替えのなさ」が、あくまで種類物としての「掛け替えのなさ」に過ぎなかったからであり、固有性に根ざした、「この」存在の「掛け替えのなさ」が問題になる、俺や周囲の人々は、やはり欠けてしまうと、重大な変化を周囲にもたらす、「欠け甲斐のある」貴重な存在である、と結論づけて、ひとまずの安心を得たいところではあります。
ところが、固有性としての「掛け替えのなさ」を有する存在であっても、やはり「欠け甲斐のない」存在であるのは、残念ながら、俺の経験(そして恐らくは俺たちの経験)に合致しています。親族やペットという、まさに「この」存在こそが俺にとって「掛け替えのない」者と死別するとき、俺は猛烈な悲しみと喪失感に襲われます。その悲しみの威力は甚大で、文字通り「立ち直れない」という感覚をもたらすものですが、結局のところ、その感覚もしばらく経つと風化して、日常の感覚の中に埋没してしまいます。もちろん、ふとした拍子に彼らのことを思い出し、改めての悲しみを感じることがないわけではありませんが、結局のところ、「この」「掛け替えのない」存在の喪失のもたらす帰結が、「ふとした拍子に思い出す」程度のことでしかないのだとすれば、やはりそれは、極めて「欠け甲斐のない」ものであると言わざるを得ません。
この「欠け甲斐のなさ」が、存在そのものが孕む儚い性質であるのか、それとも俺たち一人一人が有してしまう残酷な主観なのかについては、まだ検討すべき余地を残しています。しかし、少なくとも素朴な生活直感としては、俺たちの住むこの世界は、「掛け替えのない」存在の「欠け甲斐がない」世界であると言わざるを得ないようです。いみじくもこれは現実です。この逃げ出したくなるような絶望的な現実に気づいたとき、俺はまさしく生きる希望を見失いました。俺の大好きな、大切な、あの人やこの物、そして他ならぬ俺自身が、失くなっても「欠け甲斐のない」=「どうってことない」存在なのだとしたら、一体この生に何の意味があるというのか。
この世界の「欠け甲斐のなさ」という問題を考え始めてから、もう十数年が経過しようとしていますが、未だにこの絶望を払拭することは出来ていません。大人になるにつれてせいぜい分かってきたことといえば、この絶望になんとか折り合いをつけるために、仏教は生まれ、発生してきたのだろうという当て推量程度のことしかありません。そんな絶望しかない話を、わざわざこうやって書き記しているのは、この絶望を乗り越えたり無視したりするのではなく、この絶望の現実に根を下ろした上で、その中に希望を見出すことこそが人生だと思うに至ったからです。
俺や俺の周囲の存在が「欠け甲斐のない」ものでしかない、というのは大変な絶望です。しかも、その絶望は根拠なき幻想ではなく、経験則に基づく現実です。ところが、そんな悲観的な現実に直面しているにもかかわらず、俺の日常はその現実を無視して、「この人を失うことは耐えられない」とか「俺がいなくなったら、あれは大変なことになる」とかいう風に、存在の「欠け甲斐」を無邪気に直感し、確信して生きています。この確信には、何の根拠もないわけですから、これは幻想に過ぎません。幻想には現実と異なり質量がありませんから、幻想をもって現実に立ち向かうことは出来ません。
しかしここで重要なのは、そうした現実に反した幻想を抱く俺という存在自体は、決して幻想ではなく現実であるということです。ここに希望があるのではないでしょうか。それこそが、この「欠け甲斐のない」世界を生き抜いていく、唯一の方法ではないでしょうか。
どれだけ考えた素振りを見せても、達観した風を装っても、「これを失いたくはない」という直感は否応なく生じます。その直感は結局は幻想に過ぎないのですが、その幻想を見せるものこそが自分がこれまで歩んできた人生であり、希望の源泉であるのです。