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「プライベースに乗ったけど」【10月10日(木)】

 ね ん が ん の プ ラ イ ベ ー ス に 乗 り 込 め た ぞ !

 あれ?アイスソードってこんな強調ではなかったっけ?これはこっちは
「もしかして こ う て い ?」
の方か。まあいい、どうせサガネタなんておじさんの中でも一部の層にしか通じないんだ。

 気を取り直して。


 木曜日は仕事で京都に行く。だから、プライベースに乗ろうと思う。

 というわけで一ヶ月にわたって毎週の恒例企画のようにプライベースをこすり続けてきたが、ついに念願かなって乗車することができた。

 繰り返しの説明になるが、プライベースというのは阪急電車が実施している有料車両サービスであり、特急電車の一部において、本来の乗車料金に追加で500円を支払うことで一般車両のそれとは隔絶した優雅な移動を体験する権利を得るというものである。列車全体が有料のものとして走っているのではなく、普通の特急列車のうち一車両だけが特別待遇となっている、新幹線におけるグリーン車のようなサービスで、宝塚歌劇団を運営している阪急らしい高慢ちきでいけすかないサービスのことだ。

 かかるサービスの存在を最近知った俺は、話のタネにという助平心を催して清水の舞台から飛び降りる思いで(広く人口に膾炙した慣用表現であるが清水の舞台というのは本当に飛び降りたらちょうど死ぬか重大な後遺症を負うかの分水嶺といった感じの絶妙な高さであって慣用表現として用いるにはリアル過ぎるきらいがあるのに覚悟を決める意での慣用句の王様然とした態度を決め込んでいるのはさすが京都由来の言葉であるという貫禄だ)、500円という法外な料金を支払う決意まで決め込んだというのに、度重なるアクシデントに見舞われて今日まで乗ることは叶わないでいたのだ。陰険な京都市民から、「あをによしなお兄はんは鹿にでもまたがらはったらよろし」と言われている気がしてならなかったが、こんなことでくじけていてはせんとくんに合わせる顔がないというものだ。

 手早くスマホを操作してチケットを予約し、プライベース車両の停車する位置でしばし待つ。いよいよだ。いよいよ念願のプライベース乗車なのだ。胸の高鳴りを抑えて待つ俺の前に一際いかめしい車両が膝を折った。入念に座席番号とその方向を確認して、むんずと車両に足を踏み入れると、何とホテルマンのような出で立ちの車掌が入り口に立っているではないか。

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 なるほど。確かに俺は500円もの大金を追加で支払う貴族なのだ。そこいらの凡夫どもとは一線を画した特別なお客様というわけである。

 コンシェルジュ面の車掌に軽く会釈をして車両に入ると、足元がなんだか柔らかい。
 あにはからんや、カーペットである。さすが特別なお客様を迎え入れるホスピタリティというものを心得ておるようだ。ぐるりとあたりを見回すと、俺以外の乗客は二人だけである。平日の昼間に500円もの大金をポンと投げ出せる人生の勝者は少ないのだろう。

 なるほど、これが王の椅子か。3列シートの夜行バスを思わせる圧倒的にラグジュアリーな座席に腰を下ろす。少しばかり後ろにリクライニングさせると、新幹線自由席の1.2倍ほどの超越的なリラクゼーションである。新幹線と違って周囲に人が殆どいないから、後ろの席の人間に遠慮げに手刀を切るあの妙な儀式を行わずにすむのは精神衛生上大変望ましい。これは至極快適な空間である。これなら隣席の人間への接触を恐れず快眠することができそうだ……

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 そっと瞼を閉じた次の瞬間、つい先程聞いた言葉が俺の耳に届く。え?このコンシェルジュ、駅に停まるたびにこれ言うの?マジで?まあ特急停車駅ならどこからでもプライベースには乗れるから仕方ないのか……

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 まただ。え?これ、5分とか10分おきに何度もこの声聞くの?マジ?正気?

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 「こちら有料車両となっております。一般のお客様は前後の車両にお乗りください」

 目的地に着くまでに何度この洗脳の呪文を聞いたろうか。大金を払った自分は「一般のお客様」ではない特別な存在であると聞かせ続けられることが、これほどまでに精神をかき乱すとは思いもしなかった。こんな空虚で排他的な言葉では自尊心など満たされはしない。今ならヴェルタースオリジナルをおじいさんから貰ったかつての少年の気持ちがよく分かる。いくら大金を支払おうとも、それだけで人は誰かの特別な存在になどなれはしないのだ。

 烏丸にて電車から降りると先程までの静寂は一瞬にして消失した。一体どこに息を潜めていたのかうじゃうじゃと「一般のお客様」が歩き回っている。何とも形容し難い気分だ。この小一時間ほど、俺は彼ら「一般のお客様」ではなかったのだ。それなのに、車両を降りると彼らと同じエスカレーターの列に並ぶ。コンシェルジュ気取りの憐れな車掌に彼らを払いのけさせていた俺にこの列に並ぶ資格はあるのだろうか。プライベース愛用者はこの空気を何とも思わずにいられるのだろうか。あのコンシェルジュの乾いた呼び掛けの言葉を無意味なBGMとして聞き流すことができるのだろうか……

 この曰く言い難い後ろめたさを感じなくなることが鴻鵠の志だというのだろうか。
 俺はまだまだ燕雀のままでいいや。


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