「プライベースに乗らずに」【9月19日(木)】
木曜日は仕事で京都へ行く。だから阪急電車に乗る。
接続詞がおかしいな。別に京都に行くのに阪急に乗る必要は必ずしもないんだけど、今の俺の通勤ルートとして阪急を使う。まあ、そういうことだ。
俺は何せ奈良県のベッドタウンの出身であるから、近鉄電車に洗脳されて青春を過ごした。
この世に電鉄会社というのは近鉄とJRの2つしか無く、JRが一時間に一本しか電車が来ないのに対して、近鉄は二十分に一本もの高頻度で電車が走っているという、現代文明最先端の利器であり、近鉄沿線に居を構えるということは、それ自体として勝ち組の証である。
奈良県民とは、そういう世界観と価値観を疑うことを封殺された、哀れなえんとつ町の住人である。
もちろん俺をはじめとした多くの奈良県民は、こんな未来はおろか現在もなく、過去すらも忘れられ始めている町に身を埋める気はさらさらなくて、ある者は高校で、またある者は大学で、「空」を見るべく「世界」へと羽ばたき、「世界」には阪神だの京阪だの阪急だのと多種多様な電鉄会社が百鬼夜行のごとく跋扈しているのを知るのであるが、雀百まで踊り忘れず、誇り高き万葉の民は近鉄の恩恵が魂の爪先まで染み渡っているから、他の私鉄にはどこかよそよそしさを感じてしまうし、とりわけツンとお済まし高慢ちきな阪急に対しては、小学生男子のような反動的な態度をとってしまうものなのだ。
そんな阪急電車で京都線に乗って、烏丸(これも陰湿な京都人がいかにも好みそうな奇を衒った読み方の地名である)まで特急で行くのだが、なんだか俺の並んでいる列だけ妙に人が少ない。
女性専用車両にやあらんと警戒するも、そのような表示はまるで見られない。不思議なこともあるものだが、この具合なら今日はすぐに座ることができそうだな、とホクホク顔で電車を待つ。
するとどうだろう。いかにも優等生ヅラした阪急らしく、果たして列車は予定時刻を一分たりとも誤つことなくホームに颯爽と現れるのだが、どうも俺の目の前の車両だけが、なんだかとりわけお高く止まっている。
眉をほんの少しだけひそめながら車両に足を踏み入れようとすると、予想外の声が飛び出してきた。
「ご予約の番号のお席にお座りください」
車内アナウンスではない。
生身の女の声だ。
ぎょっとしてスマホから目を離してあたりを見ると、入り口にCAと車掌の間の子のような女性が立っている。
純正奈良県民であった、かつてのおぼこい俺ならばそれはもう慌てふためいて泡を吹いていたにちがいない。
しかし、俺はもう「空」を知っている。
これが噂のプライベースか……
阪急が今夏から始めた有料の指定座席サービスに思い至るまで要した時間は僅かコンマ5秒。
「あ、あーん、プライベースの車両ってここやったんかー、な、なるほどねー、今度乗ってみるのもありやなー」
1300年の歴史を誇る古の都の民は、誰にも聞こえないくらいの空気を嘯いて隣の車両につつと進むのであった。
次週、「プライベースに揺られて」